第47話

文字数 2,468文字

 不思議と懐かしい香りがする。
 畳の匂い。かすかに漂う樟脳……あるいはお香の匂い。
 次第に視界がくっきりとして、静脈の浮いた自分の左手が浮かび上がってくる。目の詰まった畳の上に投げ出されたその手は魚の腹のように青白い。
 腎臓の形をした銀色のトレーの上で、赤いものがにじんだガーゼが気ままな流線形を描いている。これはそう……確かに私の血だ。
 重たい上半身を起こし、周囲をゆっくりと見回す。飴色の襖には銀鼠色の霞が棚引き、ぼうっとした煙たい雲の合間から桃源郷がのぞいている。そこに人が住んでいるのか、いないのか、小さな截箔が夕暮れ時の水面のように光るばかりで分からない。天井は黒漆の格天井で、紺鼠色の空には銀の砂子の雲が浮かんでいる。壁は黄橡から水浅葱へのグラデーションを描き、桃源郷を飛び立った二羽の白鷺の姿が描かれている。
 やがて、音もなく襖が開き、薔薇模様の錦紗をまとった椿が現れた。
 しかし、椿と思ったのは間違いで、本当は彼女と同じ姿をした別人だったのかもしれない。その証拠に、彼女は不思議なことを喋りだした。
「寒天のお菓子を持ってきたの。これなら喉を通るかもしれないと思って」
 彼女が手にした盆には水羊羹がのせられていた。羊羹の上半分は透明で、水面と見立ててあるらしく、舞い散った桜の花びらが浮かんでいる。水中には爪よりも小さな緋鯉が泳ぎ、川底には抹茶色の靄が立ちこめている。
「あまり来ないでと言ったのに」私の声は自分でも驚くほどかすれていた。「貴方がそんなふうにするなら病院へ戻ります」
「あの寒々しい場所へ?」椿は唇の片側だけを上げて笑った。「壁にはひびが入って、消毒薬の匂いが立ちこめて、お粥とは名ばかりの白濁したお湯が出てくる場所へ? 貴方は阿片のおかげで夢心地だったかもしれないけど、私にはちゃんと現実が見えていたわ。無趣味な場所で無意味に死を待つつもり?」
「もうそんなことを言っていられる時勢じゃないわ。貴方も街角で注意を受けたんでしょう? なぜ、そんな豪奢な身なりをしているの?」
「ここは桃源郷だから。誰にも邪魔はさせないわ」
「私にも現実は見えているわ。貴方の一番の邪魔者は私だって。お願いだから私の言うことをきいてちょうだい。すぐに地味な紬に着替えて、どうしても売りたくないものは蔵にしまっておいて。それで皆のすることを貴方もするの。私をこんな豪奢な最上階の部屋から移して、誰か健康な看護婦を雇ってちょうだい」
「私の看護じゃ不満?」
「マスクもしない。消毒もしない。貴方はいつか私と同じ目に遭う……その時に後悔してほしくないの」
「どうして、後悔するなんて思うの?」彼女は私の手を握った。「今、貴方を手放した方が後悔するに決まってる。貴方がいないなら、こんな着物をまとう意味なんてない。白蝶貝の簪を挿す理由も。医者や看護婦は貴方を殺してしまうに決まってる。それより、ここで精のつくお粥やお菓子を食べて、何とか生きながらえるの。そのうちきっと良いお薬が発明されるわ。生きることだけに執着して、冬眠でもしてるみたいにじっとその時を待つの。雲の合間に隠された、この桃源郷で」
「そんな暮らし、長続きしないわ」
「私の手腕を甘く見てるのね。とある方がこの旅館を贔屓にしてくださってるの。その方の庇護に与っているかぎりここは絶対に安全、安泰よ」
「また大きな地震が起きても?」
「ええ。この旅館は釘一本にいたるまで厳選されているもの。ここの床柱なんて棟梁が抱っこして寝たのよ」
「この国が滅びても?」
「そうしたら、今度は滅ぼした側の人間に取り入るわ」
「この世界が滅びても?」
「それなら、滅びた先にある世界で貴方を待つことにする」
「妄念ね」
「いけないこと?」
 その瞬間、胸の奥から咳がこみ上げてきた。痛む肋骨を手で押さえながら咳をすると、血の味が口中にもうっと広がった。銀のトレーに痰を吐き出すと、まるで血をたらふく吸ったヒルのように濁った色をしていた。
「血餅ね」彼女はトレーをわざと私の目から遠ざけるように脇へ寄せた。「これで息をするのが楽になるわ。あれから……何度か吐いた?」
「吐き気はないの。でも、咳をするたびに勝手に吐いてしまうから……」
「寒天菓子が嫌なら、林檎にしましょうか?」
「林檎なら食べたいわ」と私は笑った。「結局、貴方に甘えてるのね」
「甘えていいのよ」彼女は私を抱きしめた。「絶対に貴方を助けるわ。そのためだったら何だってする。もし、助けられないなら私も一緒に行くわ。だって、貴方は省線だって一人で乗れないんですもの」
「あの世へも一緒に行ってくれるの?」
「いいえ」
 薄茶色の瞳が細められ、私の背中に回されたてのひらが熱を帯びる。彼女は言葉をゆっくりと吐き出すように言った。
「一緒には行けないわ。私には、天国への扉は閉ざされているから。だから、その手前で少しだけ待っていてね。私にはまだすることがあるから。でも、それが終わったらできるだけ一緒に過ごしたい。あの世は時間の流れ方が違うだろうから、一瞬に感じるか、永遠に感じるか分からないけれど。きっと、夢を見ないで眠る夜と似てるんでしょうね。ねえ、これが本当に妄念なのかしら? ただ誰かといたいと思うことが罪? 貴方を地獄から救いたいと思った。貴方に代わって復讐してやりたいと……それが私自身の復讐でもあったから。父は確かに変わり者だし、とても自分勝手だった。芸術に生きて現実を顧みようとしなかった。でも、少なくとも父は純粋だった。その父を見殺しにした、鬼畜生にも劣る奴らを同じ目に遭わせてやりたかっただけ。それなのに、どうして? 貴方は私を遠ざけようとする……」
「貴方には生きて幸せになる権利があるから」
「それなら、そんな権利は放棄するわ。だから、少しでも長く……」
 神様。
 その言葉を彼女が本当に口にしたのか、しなかったのか……溶けてゆく意識の中では鼓膜もうまく震えない。ただ、音楽だけは聴こえる。軽やかな太鼓の音、波を描く笛の音。ああ、この村でも神楽が始まったらしい……。
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