第3話

文字数 2,455文字

 そのホテルは、杉木立の奥で白い漆喰塗りの壁を砂浜のように輝かせていた。
 ハーフティンバー様式というのだろうか。柱や梁の焦茶色が目立ち、イギリスの避暑地にでもありそうな瀟洒な雰囲気を醸し出している。
 壁面にはひびが入り、苔が生えた廃墟じみた場所を想像していた私は、入口の回転扉をくぐってからも熱に浮かされたような気分だった。こんな場所で半月ほど、いや、一週間だけでも本を読んで過ごせたらどんなに素敵だろう。私の旅行鞄に入っている小説は三島由紀夫と中井英夫の二冊きりで、それも一冊の方はもう半ば読んでしまっている。
 ロビーには葡萄酒色の絨毯が敷かれ、シャンデリアが年月をへて艶を帯びたオーク材の柱や、螺旋階段の手すりを輝かせている。左手にはソファが並べられ、その奥はカフェになっているらしい。大きな硝子窓に映る杉木立は、絵の具のエメラルドグリーンの色にとろけている。受付は右手にあり、まるでバーのように湾曲したカウンターの奥で蝶ネクタイを締めたフロント係が笑みを浮かべている。
 椿は真っ白な上質紙に金の文字で刻印された招待状を差し出した。フロント係は若い男性で、色が白く、反対に髪と瞳は夜の水面のように黒々としている。彼は招待状と引き換えにルームキーを二つ差し出した。魔法の鍵じみた古めかしい真鍮の鍵で、頭にはホテルの名前が刻印されたタグがついている。椿は250を私に渡し、251を受け取った。
「お懐かしいでしょう」
 ふと、低く響く声でフロント係が言った。彼の切れ長な瞳は確かに私を捉えている。椿は分厚い台帳に羽ペンで名前を記している。彼女は左利きだから、ペンのインクが見事なまでにかすれている。私は代わりに羽ペンを受け取り、そこに彼女の名前を書いた。
「ここは初めてなんです」
 うつむきながら私はそう答えた。今ホテルに招待されているのは馴染みの客だけだから、私もそうに違いないと早合点されてしまったのだろう。しかし、フロント係の青年は何も言わない。自分の名前を記してから顔を上げると、彼は唇で美しい弧を描いて微笑んでいた。奇妙な間が……それでいて、蜜の香りがする紅茶を飲むときのように馥郁とした時間が流れてゆく。
 彼は嘘をついていない。
 私は半ば本能的にそう感じた。
 冷たい鍵の音をさせながら椿は旅行鞄をフロント係に渡した。廃館間近なせいか、彼は客室係も兼ねているらしい。痩せている割に力強い手で二つの鞄を抱えたまま螺旋階段を上ってゆく。その革靴は丁寧に磨かれて光っていたが、なぜか踵にまだ乾ききらない泥はねがついている。
 250号室はお伽噺の世界だった。菫の形をしたランプが桃色の金唐革紙の壁紙を濡れたように輝かせ、ふっかりとしたベッドには天蓋がついている。ドレッサーもライティングビューローも色の濃いオーク材で、所々に壁紙と同じ薔薇の模様の浮き彫りがある。しかし、何といっても嬉しいのは本棚があることで、その背表紙には見覚えのある題名が散見された。
「気に入った?」
 カーテンを開いて窓の外をながめながら椿がきいた。私からは彼女の見ているものが見えない。それでも、その肩が彼女の警戒心を物語るように少しだけ上がっていることに気づいた。
「もちろん。二冊じゃ心許ないと思ってたところだから」
「お気に召していただけて何よりです」
 フロント係はそう言うと、ベッドの脇に立ったままフロントへの連絡方法を教えてくれた。象牙色の電話器がのせられたサイドテーブルにも本が置かれている。何気なくその一冊を手にすると、ゲーテの『ファウスト』だった。
「素晴らしい時間を過ごしていただけることと存じます」
 丁寧なのか、ぞんざいなのか分からない口調でフロント係は言った。自分の仕事に絶対の自信を持っているのか、離職間近でどうでもいいと思っているのか。私はベッドに腰を下ろすと、色褪せた『ファウスト』の表紙を見つめてきいた。
「グレートヒェンのことをどう思います?」
 すると、窓際にいた椿が振り返った。
「何の話?」
「水の女ですね」フロント係は変わらず無感動な口調で答えた。「世紀末芸術の典型的な女性像でしょう。男の罪を被って死ぬ女。時代とともに受容のされ方が変わってくるでしょうね。哀れな優しい聖女か、ただの愚かな女か。彼女のような女性像が賛美されたのは、資本主義経済に浸かりきれない男の罪悪感を軽減してくれるからです。罪を贖って代わりに死んでくれる。あの世でも彼を許すよう神に懇願してくれるでしょう。そういう意味ではオフィーリアと変わらない。聖女でもあり、狂女でもある」
 フロント係はそう言うと、サイドテーブルにあるもう一冊の本を指先でたたいた。シェイクスピアの『ハムレット』……グレートヒェンもオフィーリアも、確かに男性のために身を滅ぼす女主人公だ。
「私をおいてもう余興を始めてしまった?」
 椿は輪を作るように歩み寄り、ベッドに腰を下ろして私の膝に触れた。
「いいえ」青年はいびつな笑みを浮かべた。「貴方たちは明日から加わってください。今日はお疲れでしょうから。251号室へご案内いたしましょう」
 膝に置かれた椿の手から不思議な熱が伝わってくる。しかし、フロント係が彼女の旅行鞄を提げてドアの方へ向かうと、その手も躊躇なく私の膝を離れてしまった。
「クローゼットを開けてみて」
 ドアの手前で、椿は謎々遊びをするように振り返って言った。
「どうして?」
 椿は答えない。ドアが閉まってから言われた通りにしてみると、シルクのドレスが一着、まるで誰かの忘れ物のようにぶら下がっていた。
 いつのまにこんな悪戯をしたのだろう? 部屋に入ってすぐ椿は窓際へ向かったはずなのに。それとも、あらかじめホテルに頼んでおいたのだろうか?
 ドレスはやや青みを帯びた淡い桃色で、胸のところに縁がぎざぎざした撫子の花のコサージュがつき、そこからドレープが裾へ向かって柔らかに流れている。
 それがオフィーリアの歌う三色菫でも、雛菊でもないことに私はどこかでほっとしていた。
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