第36話

文字数 2,073文字

 檸檬色の光が洞壁のくぼみにたまった鍾乳石を照らし出す。まるで練乳のようにとろりとした溶けない氷。とても軟らかそうに見えるのに、指先で触れるとキンとして、ひどく冷たい。
「この鍾乳洞はどこかで祠とつながっているはず」百合香は頭上の氷柱石を避けながら言った。「安全に外へ逃れるとしたら、その祠から出るのが一番だと思う」
 氷柱石から雫が垂れ落ち、私の頬を、唇を強張らせてゆく。
 それなら、わざわざ余興に参加しなくても、このホテルから脱出することができるのだろうか? 椿や葵にもそう伝えるべきだろうか? しかし……そもそも椿はこの場所から出たがっているのだろうか?
「ああ見えてママは弱虫だったの。私は何度も妖怪に会いにゆこうって言ったのに。あんなものを飲んだって現実から逃げられるはずないのに」
「あんなものって?」
 そうききながら、私はもうとっくにその答えを知っているような気がした。
「阿片。ママはよく眠れるお薬だっていうんだけど、それならなぜわざわざあんな場所に隠さなきゃならないの? 眠りたいならお散歩が一番って言っても、それすら怖いってわがままばかり。もう桜が咲くのは見たくないんだって。だからって、男の人にすがりついて何になるんだろう?」
「好きな人なら……不安な時に一緒にいたいって思ってもおかしくないよ」
「それってママのこと? 私のこと?」
 百合香が立ち止まって振り返る。私は非常灯の光に眼を細めた。
「ただの一般論」
「それなら、もうそんな話聞きたくない。それに、もし私のことを言ってるなら葵との噂は誤解だよ。あれはママが勝手に流したの。私たちはこのホテルを探検してただけ。そういう噂を流しておけば、私の役を当てづらくなるからって。私は本当のことを言ってるのに嘘つき呼ばわりされて、本物の嘘つきは陰で私を嘲笑ってる」
「貴方は椿を誤解してる」
「それは撫子の方でしょ? 貴方こそ彼女の何を知ってるっていうの? あの見た目に騙されてるだけ。きっと、お面を外せば夜叉の顔が現れると思うよ」
「椿は」
「口論するつもりなんてない」百合香はまた歩きだしながら言った。「私はただ思い出してほしいだけ」
 溶けかけた蝋燭をいくつも重ねたような石柱がそびえ立ち、そのすぐそばにはいびつな竪穴が口を開けている。百合香はそこへ向かって足を進めた。私は緞帳のように垂れた鍾乳石をくぐって彼女の後を追った。光は闇の中をためらいながら進み、時々砂糖粒のように輝く炭酸カルシウムの結晶を映し出す。
 ふと、百合香が分かれ道の手前で立ち止まった。
「地図なんてないよ。どっちに進む?」
 光は隧道の壁をさまよっている。二人の影が洞壁の凹凸に沿ってのび、もう二人、別な道連れがいることを教えてくれる。
 腥い匂いが分かれ道の右手から漂ってくる。海辺の砂浜に打ち上げられたまま干からびた海藻。フグの死骸。触覚をサワサワ動かしながらその死骸に集まるフナムシ……。
「右へ」と私は言った。「行き止まりなら引き返そう」
 百合香はうなずいて右の枝道に足を踏み入れた。進むにつれて、嫌な匂いはだんだんと強くなってゆく。それは彼女のお伽噺を思い出させた。きっと、彼女も同じことを考えているのだろう。行き止まりにたどり着くまでは何一つ喋ろうとしなかった。
 半人半魚の妖怪が棲んでいたのと同じ、細い丸太の柵で封じられた土牢。その柵には扉があり、ほどけた鎖が海蛇のようにからみついている。錆びた鎖は露に濡れ、南京錠は柵に引っかかったまま口を開けている。
 百合香が非常灯で土牢の内部を照らす。おそらく、人力で掘り進められた牢なのだろう。壁には所々に鋭い傷跡のような鑿跡がある。私は冷たい鎖を解いて扉を開いた。
 壁の曲線にそって木製の棚が設られ、そこにたくさんの壺が置かれている。水瓶にしては小さいが、砂糖壺にしては大きい。表面の釉薬にはひびが入り、窟内の湧水がその貫入を染めて土色の稲妻模様を描いている。ということは、これらの壺は長い間ここに放置されているのだろう。一つ一つ中身を確かめたかったが、煙たい闇が守護獣のように周囲を取り巻いている。
「ここは?」
「分からない」百合香は明かりをあちこちへさまよわせながら言った。「お祖母ちゃんから聞いた話にもこんな場所は出てこなかった。妖怪はここにはいないかも」
 ふと、視界の隅を小さな扉がよぎった。木製の扉は岩盤のとぼそで固定されているが、鍵はかけられていないらしい。
 湿った取手をつかみ、ゆっくりと扉を開いてゆく。
 檸檬色の光がその奥を照らし出す。思ったよりも広々とした空間に、何かの塊が積み重ねられている。
 黄土色に変色した頭蓋骨の山。ひびの入ったものもあれば、歯が数本残っているものもある。笑っているように見えるのや、苦々しげに押し黙ったのも。
 夢の中で会った錬金術師の部屋にあったものとも似ている。
 もしかしたら、彼はこの場所からお気に入りの頭蓋骨を一つ、盗んできたのかもしれない。
 百合香の悲鳴が鼓膜を震わせる。それと同時に、土牢の扉が閉まる音が窟内に響き渡った。
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