第6話

文字数 2,351文字

 タキシード姿の隣客が、肩を左右交互に前に出しながらのそり、のそりと歩み寄ってくる。彼の妻もちょっと立ち上がりかけたが、くっきりとした笑みを浮かべるだけで挨拶に代えたらしい。結局、それが正しかったのだろう。彼の口からは必要以上にアルコールの匂いが漂い、顔中の毛穴が汗を吹き出しつつあったから。
「お待ちかねしてたんです。どうも、こんな寂しい山奥ですからね、どうなることやらと妻とも話しておったんです。ええ、申し遅れましたが私は……」
 男性はタキシードの内ポケットから名刺入れを取り出そうとしたが、幸か不幸かそこは空っぽだったようだ。黒縁の眼鏡のレンズが汗で曇り、苦し紛れに胸や腹をなで回している。
「飯桐と申します。そいでそちらは……」
「私は椿。こちらは友人の撫子」椿は挨拶を返した。「以後、お見知り置きを」
「お美しい方々だと妻とも話しておったんです。何せ、こんな山奥ですからね。ええ、それで少々お尋ねしたいことがあるんですがね、ここらで十六、七の娘を見かけませんでしたか? もしかしたら、もう少し若く見えるかもしれませんが」
「白いワンピースを着た?」
 私がそう尋ねると、飯桐は眼鏡の奥の瞳を見開き、むしろ困ったように顔をしかめた。
「服の色まで覚えてませんがね。どこかへ行ったきり帰らなくて。夕食にも現れないなんて思いもしませんでしたが。本当に始末に負えない子でして。こんな時間にどこをうろうろしているのか知りませんが、こんな寂しい山奥ですからね。万一のことがあったらと妻とも話しておったんですよ」
 一時的とはいえ娘が行方不明だというのに、その父親がこうまで酔っぱらえるものだろうか? それとも、だからこそ飲まずにはいられないのだろうか?
 確かに隣席にはグラスがもう一人分セッティングされている。飯桐の妻は夫の行動など素知らぬ様子でワインを飲んでいる。
「249号室の」と言いかけて、私は小さく咳をした。「その方なら、少し前にお会いしました。そう、百合香さん……」
「ええええ、そうです。娘は百合香というんです」
「間違えて私の部屋にいらしたんです。また後でと仰ってましたから、どこか近くにいらっしゃるんじゃないでしょうか。和館の方や」
「和館」飯桐はなぜか懐中電灯でも向けられたように目を瞬かせた。「そちらに用があると言ってましたか?」
「いいえ。そんなことは」
「隠さんで仰ってください。女性同士の連携ってやつは知ってますがね、時と場合によりますよ。こんな時間にあちらへ行かねばならんというのは、その、親との食事の約束を反故にしてまでというのは」
「私たちはホテルに着いたばかりなんです」と椿が口をはさんだ。「百合香さんはきっとすぐに見つかるでしょう。それとも、もう余興を始めていると仰るなら……」
「いえいえ、まさか。私は娘を心配しとるだけです。全く、父親にとって娘というのは謎そのものですよ」
 そう言うと、飯桐は軍隊式にかかとを鳴らし……といより、単にふらついただけかもしれないが、妻の待つ席へのそのそと帰っていった。老犬のように喉を鳴らして何かをつぶやきながら。
「アドルム、アドルム……」
「何かの呪文?」
 私がそうきくと、椿は唇の端だけで微笑んだ。
「おまじないじゃない? 娘から悪い男が離れますように。もしくは、全てが夢になりますようにって」
 メインの牛フィレ肉のステーキにはフォアグラがのせられ、トリュフのソースがシュルレアリスムの絵画じみた模様を浮かべている。一方、私の方は鴨肉のソテーで、流れたばかりの血を思わせるカシスのソースが波を描いていた。
 椿はミディアムレアのステーキを綺麗に切り分け、ゆっくりと口に運んだ。黒いソースの線が毛羽立ち、フォービズムの絵画に変わってゆく。
「あの女の子を知ってるの?」
 一瞬咀嚼が止まり、椿の瞳はパレットのような皿に不自然に釘づけになった。
「パンのお代わりは?」
「これで十分」私はパンを千切って黒すぐりのジャムを塗った。「ホテルに招待されているのはお馴染みの客ばかりなんでしょ?」
「好奇心があるのいいことだけど、父親があんなに困ってるのを見たら分かるでしょ。このホテルで本を読んでのんびり過ごしたいなら、あまり関わるべき子じゃないって」
「そんなふうには見えなかったけど」
「凡庸な人間は善人のふりをするでしょ? 心の中で自分は悪人だと思いながら。でも、本当に他人に害をなす人間は自分を善人だと信じこんでるの。世の中から虐げられた、孤高の存在だって。それで人畜無害な、気の弱い道化のふりをする」
「さっき百合香って子、裸足だったの。つまり……変わってる子を装うなら凡庸な子ってこと?」
「まだ余興は始まってない」と椿は息をついた。「裸足だったなら、裸足になる理由があっただけのこと。例えば、靴下を汚してしまったけれど替えが乾いてないとか」
「どうして、ホテルで靴下が汚れるの?」
「魔女のふりをして遊んだのかもしれない。そう、誰かに呪いをかけるために、露の乾かない早朝のうちに花を摘んで……」
「それとも、素敵な王子様に会いにいった? 和館って聞いたとたんに父親が目の色を変えたもの」
 私が微笑むと、つられて椿も笑った。
 遠い昔、自分も月夜の晩に誰かと出会った……黄金色の月は茫々と吹き流れてゆく雲に半ば隠され、木々のざわめきだけが鼓膜を震わせていた。
 叢雲は雲母のような光を帯びて、月がのぞく瞬間を盗んで私は相手の顔をのぞいた……。
 脳裏に浮かぶ妄想を消し去るために、私は赤い炭酸水を口へ運んだ。
 人差し指がジャムでぬるついている。ふと、椿がナプキンを渡して言った。
「すぐ拭かないと、触ったものが汚れるでしょ?」
 まるでマクベス夫人のように、私は白いナプキンで自分の指を拭い続けた。
ワンクリックで応援できます。
(ログインが必要です)

登場人物紹介

登場人物はありません

ビューワー設定

文字サイズ
  • 特大
背景色
  • 生成り
  • 水色
フォント
  • 明朝
  • ゴシック
組み方向
  • 横組み
  • 縦組み