第12話

文字数 2,633文字

 分厚いカーテンが閉ざされたその部屋は、私の部屋よりいくらか狭く感じられた。
 もしかしたら、鮮やかな緋色の金唐革紙の壁紙や、立派なオーク材の鏡台のせいかもしれない。壁紙に並ぶ金のスイレンは、ランプの光を反射して沈みかけた夕陽の色に輝いている。それは阿片常用者が一瞬の快楽を永劫と感じる、その際にまぶたの裏に浮かぶ光景を想像させた。
 椿はくすんだラベンダー色の絨毯に靴を投げ出すと、ホタルブクロの形をしたランプの光を浴びるようにベッドに仰向けになった。
「まるでもう陽が沈んだみたい」と私は声をかけた。「カーテンを開ける?」
「このままで平気」シルクのブラウスの包みボタンをゆっくりと上下させながら椿は答えた。「すぐ出かけるもの。ほら、和館を案内してあげるって言ったでしょ?」
「もう一隻の屏風を探すの?」
「そう。その前に少しだけ休ませて」
「まだ昼間なのに」
「昼間だからだるいの」
 鏡台の脇にある本棚には色褪せた背表紙が並んでいる。その中には私の部屋と同じ本もあった。私は『ファウスト』を抜き出そうとして、その隣にある『ハムレット』を手にした。共通しているのはこれ二冊で、ほかは作家は同じでも異なる著作が用意されているらしい。
「不思議」
 私が『ハムレット』の表紙を見せると、椿は気だるげに顔をこちらへ向けた。
「この本棚には戯曲が二冊。それも私の部屋と全く同じもの。シェイクスピアなら『十二夜』だって『真夏の夜の夢』だってあるのに。それでいて、小説は私の部屋にあるものと違う。私の方は『金閣寺』だけど、こっちは『仮面の告白』……それなら、戯曲も違うものを置けばいいのに。貸し借りできて便利だし、違う部屋に泊まったときに楽しめるし」
「なるほど」椿はまた三日月の笑みを浮かべた。「早速第八項めに取りかかってるってわけ。初めに全ての役に共通する法則を見つけること……だっけ」
「だって、知らない役なんて当てられる? みんな受けた教育も趣味も違うのに。ホテルの本棚にある小説なら、自由に手に取って読むことができる」
「それじゃ、撫子の役はその二冊のうちに入ってるんだね」
「それは一つめの『質問』?」
「むきになってるところをみると当たりかな」
 椿はベッドに顔をふせて笑いだした。彼女もゲームの参加者だということをすっかり忘れてしまっていた。警戒すべき人間はいたるところにいるのに……私は自分の頬がほてるのを感じたが、『ハムレット』を本棚にしまってスツールに座った。
 椿はまだ笑いやまない。ふと、私は鏡台の鏡に映る暖炉に火の気が全くないことに気づいた。しかし、部屋自体は喉が渇きそうなほど暖かい。
「この部屋、暖房が効いてるの?」
 すると、椿が腹ばいになったまま答えた。
「ラジエーターヒーターでしょ」
「私の部屋は暖炉だけど……目が覚めた時、少し寒かった」
「撫子は常連客じゃないからサービスじゃない? そうだ、和館から戻る前に部屋を暖めておいてもらわないと」
「ヒーターの故障ってあると思う?」
「あるかもね。もう廃館寸前だから」
 ヒーターの柵の奥から聞こえてきたあの音は、故障した機器の立てる音だったのだろうか? ひぃ、きぃ、きぃぃ……狭い場所を強い風が吹き抜けてゆくような、霧笛じみた甲高い音だった。
「このホテルには隠し通路があるの?」
 そうきくと、椿は異音を聞きつけた猫のように耳をそばだてた。
「百合香がそう言ったの?」
「古いホテルだからってだけ……ただの空想」
「私と二人きりじゃ退屈?」
 椿はそう言って鋭い視線を私に向けた。ランプを受けた右眼は琥珀色に透けているが、左眼は奥行きを失ってまどろんでいる。退屈じゃない。そう答えるべきなのに、歯医者で麻酔を受けたように唇が痺れて声が出せない。
「それなら、私も空想の話を聞かせてあげる」
 透明なお酒に酔ったような、童謡を口ずさむような声で椿が言った。
「その時、私は地下の駅にいたの。仕事仲間と一緒で、それもお客さんのところへ謝罪へ行った帰りだった。私もその人も悪くない。でも、どうしても謝らなきゃいけなかった。それで鬱屈として、バーにでも寄りたいような、一刻も早く帰ってベッドに入りたいような、異様な気持ちだった」
「本当に空想の話?」
 私はやっと自由になった唇を動かしたが、椿はその質問には答えてくれなかった。
「その駅は工事中で、コンクリートの壁が半分壊されて、普段は目にすることのない電気系統のコードがむき出しになってたの。一方で、エスカレーターの天井には真っ青なLED電球が灯ってた。まるでこれからたくさんの人が水族館じみた工場へ運ばれて、全員アンドロイドになって帰ってくるみたいだった。それから、私とその同僚は電車を待った。左手に暗いトンネルが口を開けて、そのコンクリートの湾曲した壁には亀裂が入って雨染みができてた。雨じゃなく、地下水かもしれない。私はふと、そこに黒い陰がうずくまってることに気づいたの。初めは工事の人かと思ったけど、電車がまもなくホームへ参りますってアナウンスが流れても、その陰には移動する気配はなかった。うずくまったまま、ゆっくりと頭を上げただけ。顔も、首も、手も……全てが闇に混じっていたけど、毛羽立った輪郭が何となく分かった。それから、金色の瞳が私を見つめた。その瞬間、私はそれが人間じゃないことに気づいたの。影が千切れて、分離して、わだかまってるみたいに、独自の意志を持たない何かがそこにあった。私は同僚の肩を突ついた。あれは何? って。彼女は少し怒った様子で私を無視した。単に機嫌が悪かっただけかもしれないけど。そして、電車がホームに滑りこんできたの。揺れる吊り革を捕まえようとして、失敗して、彼女は私に吐き出すように言った。ああいうのは無視するのがマナーですよ、って。私は彼女にきき返したかったけど、なぜかそうはできなかった。あれは工事関係の人でも、駅員でも、うっかり迷いこんだ人でもない。それなら、電車は緊急停止するはずだから。でも、何事もなかったように電車はまた走りだして、暗い地下道を走り続けた」
「捜してるの?」
 椿は半ば起き上がった姿勢でゆっくりと瞬きをした。
「まだあの子を捜してるんでしょ」と私はくり返した。「消えてしまった友だち。眼の下にほくろのある……」
 すると、椿はかすかな笑みを浮かべ、その唇を手で覆ってからあくびした。
「探してるのは屏風の片割れ。でも、案外隠し通路も同じところにあるのかも」
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