第11話

文字数 2,491文字

 ゆったりとした勾配を描く天井のランプは、まるでその中で蛍でも飼っているように柔らかな檸檬色の光を宿している。カンテラじみた形が余計にそんな空想を誘うのかもしれない。しかし、それがなくてもカフェの東側は一面大きな硝子窓で、室内は洗われたばかりというふうに隅々まで光で満たされている。
 私は半月のようなチーズオムレツを食べながら百合香の話を思い返した。焼身自殺という言葉には苦い味がして、陽光に満たされた店内ではお伽噺としか思えない。それでも、250号室と231号室の間にある壁の焦げ跡を思い出すと、やはり何かつながっているような気もする。
 椿の瞳には庭の緑が映りこみ、それが元の薄茶色と溶け合って水鏡のように見える。珈琲を飲んで息をつくと、彼女は細波を思わせる笑みを浮かべた。
「早朝の散歩は楽しかった?」
 私は紅茶のカップをソーサーに置いた。
「どうして、知ってるの?」
「窓を開けたら、ちょうど撫子と百合香が一緒にいるところが見えたの」
「もう梅が咲いてたよ。お菓子みたいな甘い香りがして……」
「あの子とはあまり関わらない方がいいと思うけど」
 ウエイターの紫苑が空になったお皿を下げてゆく。その時、彼の黒い瞳がテーブルクロスの上を意味もなく周回したことに私は気づいた。
 なぜ、ときき返す前に椿は続けた。
「大体の見当はついてるの。さっきから、心ここにあらずで考えこんでばかり。きっと、ありもしないことを吹きこまれたんでしょ? このホテルにまつわる奇怪な因縁話や、妄想で作られた異様な物語を」
「立ち聞きしたの?」
「二階から? 私にリップリーディングの才能があると思う?」
 散歩の間、私は確かにホテルを見上げたはずだ。しかし、その窓の一つが開いていたかどうか……記憶が曖昧で思い出せない。
 紫苑が青磁色のお皿に盛られたタルトタタンを運んでくる。長時間煮こみ、焼き上げられた林檎は甘い蜂蜜の香りを漂わせている。彼はふっくらした下唇に笑みをにじませ、軽くお辞儀をしてからテーブルを離れていった。
 椿は林檎をフォークで刺すと、謎々じみた言葉を口にした。
「どうして、分かったか分かる?」
「全然分からない」
「それなら教えてあげる。あの子は常習犯なの。周囲にちょっとした混乱を引き起こすのが趣味みたい。思春期の少女が現実と空想との区別がつかなくなって騒動を起こす。注目を集めたいって、ただそれだけのために。よくある話でしょ?」
「前にも似たようなことがあったの?」
「そう」椿は恬淡に答えた。「それもしょっちゅう。あんなに可愛い子だもの。振り回される男がいたっておかしくないでしょ? でも、一番振り回されてるのはお父さんかもね。心配した挙句、酔っ払って他人に娘の居場所を聞き回るなんて。あそこまで行くと恥ずかしいっていうより可哀想」
「飯桐さんのこと?」
「ほかに誰が?」椿は右の口角を上げて笑った。「あの家族がよくここを訪れたのも、幼い娘の療養のためだったらしいの。静かな環境で家族水入らずで過ごす時間を作れば、娘の行状も良くなるんじゃないかって。噂にすぎないけど、親に乱暴されたと言って教師の家に泊まりこんだり、親友の兄を危険思想の持ち主だって警察に訴えたり」
「親友の兄って……そんなことして平気だったの?」
「平気じゃないから困ってるんでしょ」
 私は無言で紅茶を飲んだ。砂糖を忘れていたことに気づいて手をのばすと、椿が銀のシュガーポットをこちらへ寄せてくれた。それから、彼女は思い直したように蓋を開け、私のカップに海の砂のような砂糖を落とした。
「寂しいのかな?」
 そうきくと、椿の瞳がふと揺らめいた。しかし、彼女は何も言わず、硝子窓の向こうをながめただけだった。庭の緑は水を含ませすぎた筆で描いたように淡くにじみ、なぜか幼いころの懐かしい景色を思い出させた。
「寂しいから嘘をつくんでしょ」私は言い直した。「本人も嘘と思ってないのかもしれない。空想を重ねるうちに思い描いた輪郭がくっきりして、段々現実味を帯びてゆくの。周りがそれに振り回されるのは、彼女の言葉に真実としての重みがあるから……私にも忠告してくれたよ。あまり長くここにいちゃいけないって」
「嘘」
「嘘じゃない。余興のヒントもくれたし」
「信じちゃいけないって言ってるのに。あの子は『ハムレット』のオフィーリアなんだから」
 椿の瞳に緑の色が浮かんでいる。しかし、その色は閃いたかと思うとすぐに流れ、とりとめのない幻影のように消え去ってしまう。
 私はタルトタタンを口へ運び、その甘みが喉を滑り落ちるのを待ってからきき返した。
「分かったの? 百合香の役柄が」
 椿はうなずき、自分の下唇をなぶるように人差し指の腹でこすった。
「多分。あの子は、葵のために池に身を投げたんだから」
「葵って?」
「このホテルの常連で、今度の招待客の中にも入ってる。和館にいるからまだ顔を合わせていないだけ」
「どうして、そんなことまで知ってるの?」
「知ってるも何も」椿はまた珈琲を飲んだ。「その事件が起こった時、私はここに泊まってたから。夜中に宿泊客の失踪騒ぎがあって、それがあの百合香だったってわけ。結局、池でずぶ濡れになったところを発見されて、飯桐が葵の両親に大声で詰め寄って。百合香は葵に捨てられて傷心のあまり……って話だけど、どこまで本当なんだか」
「それでオフィーリア……でも、オフィーリアがおかしくなったのは、恋人のハムレットに捨てられたからじゃなくて、彼が狂ったふりをしてるのを信じてしまったからでしょ?」
「その違いにどんな意味が?」
「支配人に答えるつもり? 百合香の役はオフィーリアですって」
「まさか」椿は笑って言った。「佯狂を信じたら、それこそオフィーリアの二の舞を演じることになる。彼女をしっかり演じてるってことは、百合香がオフィーリアじゃないって一番の証拠でしょ」
「ちょっと待って。わけが分からない」
「だから、オフィーリアの裏側を探すってこと。彼女の陰に隠れているのは誰?」
 庭先でヒヨドリの鳴くけたたましい声がする。
 木陰にいるのは本当にヒヨドリか、それとも……。
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