第48話

文字数 2,067文字

 まぶたを開くたびに、そこに描き出される光景を疑うのがもう癖になってしまった。
 私は瞬きをくり返し、サイドテーブルに置かれた時計を見つめた。しかし、十一時が午前なのか、午後なのかさえ分からない。ホタルブクロのランプは紅色の金唐革紙を夕方の水面のように輝かせている。
 柔らかすぎる枕に半分顔を埋めたまま寝返りを打つと、椿の長い髪が頬にさわっと触れた。その髪を一束指にからめ、くるくると巻きつける。すると、彼女が振り返って私を軽くにらんだ。
「その指を放しなさい」
 私はさっきとは逆回りに指を回し、緩やかな波を描く髪を自由にしてやった。
「夢を見たの」
 まだ夢を見ているようにかすれた声。風邪を引いている気もする。しかし、そばにいる椿には私の声がちゃんと聞き取れたらしい。
「どんな?」
「他人の夢の話なんて聞いてもつまらないでしょ? でも、たまにどうしても誰かに話したくなる夢ってない?」
「小さな夢でなく、大きな夢ってこと?」
「どういう意味?」
「巫覡が見る夢。個人的な夢でなく、村落全体に関わるような大きな夢。そういう夢は神様が見せるものだから、むしろ話す義務があるの」
「そんな大袈裟なものじゃない。個人的な夢。でも、私のそばにはやっぱり椿がいた。私は貴方を知っていて、貴方も私を知っていたの」
 椿は汗ばんだ手をのばし、私の頬にそっと触れた。
「思い出したの?」
 私は無言のままうなずき、その手の甲に軽く唇を押しつけた。
「着替えてくる。私たちもそろそろ出発しないと……そうでしょ?」
 すると、椿は上半身を起こして肘をついた。
「まだ行きたくないと言ったら?」
「私は一人でも行く。だから、鍵をちょうだい」
「どうして」椿は淡い色の瞳を細めた。「貴方はいつも先に行ってしまうの?」
「それが貴方のためだから」
 着替え終わった私は椿の部屋のドアをノックした。521号室。褪せた金色に光るプレートを見るのもこれが最後かもしれない。
 私は誰もいない受付カウンターに520号室のルームキーを置くと、部分的に鍍金がはげたベルを無意味に鳴らした。椿もその横に自分のルームキーを並べて置いた。
 それから、回転扉をくぐり抜けた。
 櫓の地下室から続く洞窟は変わらず煙たい闇に覆われ、一歩、一歩進むたびに靴の底から湧水がしみこんでくる。革靴の爪先が濡れて変色している。しかし、非常灯の光の輪から外れるとそれも闇に溶けて見えなくなってしまった。聞こえるのは氷柱石から雫が垂れる音。それにコッ、コッという靴音。
 土牢に近づくにつれ、それらの音が遠のいて風のうなり声に吸いこまれていった。お、お、おお……旋風が落ち葉を巻き上げ、空高くまき散らす音。その音にからめ取られてしまったら最後、元の世界へ戻ることはできないのかもしれない。
 潮の匂いがする。砂粒をまとったまま干からびて死んだ魚たち。それに群がるフナムシの触覚。椿が牢の前で立ち止まると、私はゆっくりとまぶたを閉じた。
 黒々とした、濡れた岩石で作られた風車が回っている。ご、おお、と声を上げながら、倦まずたゆまず回り続ける巨大な怪物じみた歯車。その歯の一つ一つにはそれまでに通り抜けた人間の血や、肉や、骨のかけらがはさまっている。しかし、歯車は頓着なくそれらを噛み砕き、腥い息を吐きながら回転し続けている。
 私はまぶたを開き、椿の瞳を見つめた。
 椿は南京錠に錆びた鉄の鍵を挿しこんだ。
 ぎぃぃと鈍い音がして、牢の扉が開かれてゆく。腹を空かせた妖怪が、岩肌にひったりと寄せていた体を起こし、金色の瞳でこちらを見つめる。私もその瞳を見つめ返した。
 そう、目をそらす必要なんてない。私は彼を知っている。彼も私を知っている。鱗の生えた半神の怪物。どれだけの血をすすっても本当の神になることも、ただの人になることもできない。私はもう何度もここを通り抜け、そのたびにこうして彼を見つめてきたのだから。
 椿は私の手を握った。そのてのひらは冷たく、湿っている。きっと、私の手も窟内と同じ温度だろう。彼女は遠くをながめるように顔を上げ、非常灯を土牢の奥へ向けた。それを合図に、私たちはほぼ同時にささやき合った。
「撫子、貴方の役はファウストでしょ?」
「椿、貴方はメフィストフェレスでしょ?」
 椿の唇が四日めの月の形になる。かすかに血の色を帯びた、舳の反り上がった舟の弧。
 私たちは手を取り合ったまま怪物に近づいていった。
 こぼれた墨汁のようにとろっとした闇が広がり、爪先を、足首を、膝をはい上がってくる。歯車の軋みが鼓膜を震わせ、同じリズムで唇がわななく。
 太い鉄の棒を突き刺されたような激しい痛みが背中を貫き、声にならない悲鳴がこみ上げる。歯車が私の骨を砕き、肉を削ぎ、岩肌に鮮血をまき散らす。
 歯車が溶けた飴のように歪み、渦を巻き、踊りながら私の肌にまとわりついてくる。

 聴こえるはずのない音楽が聴こえる。
 太鼓と笛の音。もう神楽が始まっているのだろうか?
 それとも、生贄にされる巫女の歌? ああ、懐かしい声も聞こえる。

 私の名前を、呼ぶ声。
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