第二話 地下御殿の入口
文字数 2,709文字
市谷にある長屋へ入るための木戸を潜ったところで、ちょうど夜四ツ刻の鐘が鳴った。
木戸番の老人が木戸に閂をする。虎之助は裏長屋の自分の家に行く。
虎之助の借りている部屋は間口が九尺(約二・七m)。奥行きは二間(約三・六m)の賃料五百文の棟割長屋だった。
家に帰ると、屋台を土間に置き、薄い布団を敷いて眠る。
「虎之助、虎之助はいるかい」
虎之助は名を呼ぶ男の声で目を覚ます。入口の腰高障子を開けると。昼の光が入ってくる。陽の光に照らされて一人の老人が立っていた。
老人の身長は六尺六寸(約百七十㎝)の長身で細身。髪は白髪の小銀杏髷。顔は四角く、髭はない。男前とは言わないが、愛嬌のある顔である。
名は新庄 宗右衛門 。元は薬問屋の尾張屋の主人である。今は隠居して息子に店を譲ってこの長屋で隠居をしているので「御隠居」と呼ばれている。
「どうした、御隠居さん、何か用けえ?」
御隠居は柔和な顔で尋ねる。
「蕎麦の屋台を出したんだって? どうだい、蕎麦屋の儲けは?」
「日中は、まるで売れなかったよ。でも、夜になると、横に豆腐屋が出たからね。豆腐と一緒に蕎麦と酒が、よく売れたよ」
「ほう、それはまた幸運だね。そんで、今、起きたのかい?」
「これから、昨日の蕎麦のあまりを喰って朝飯にするところだよ。御隠居も一緒にどうでえ。すぐ作るよ」
御隠居は遠慮がちに断った。
「私はいいよ。それより、飯の後でいいんだ。ちょいと頼まれてくれ。なに、難しい仕事じゃないよ。尾張様の上屋敷に行って土蔵の清掃の手伝いをしてきてくれないか。何でも、思ったより人足が集まらなくて困っているとか」
「いいよ、俺の本職は口入屋(便利屋)だ。力には、ちょいとばかし自信がある。屋台は仕事がない時の副業だからね。荷物の移動なんてのも、お手のものさ」
「そうか。なら、これが尾張様の上屋敷に入る鑑札だよ。持っていきなさい」
「あいよ」と虎之助は朱色の鶏が描かれた鑑札を受け取る。
虎之助は残りの蕎麦を蒸すと、ぺろりと食べて食事を済ませる。
尾張徳川の上屋敷は市谷の長屋から歩いてすぐの場所にある。
尾張徳川家の屋敷の白い塀が見えてくる。屋敷の入口の門から入ろうとすると、六尺棒を持った番士に止められた。
「ちょっと待て、そこの町人。ここは尾張様のお屋敷だ。お屋敷に何用だ?」
「何って、お屋敷の土蔵の清掃を手伝いにきました。これ、お屋敷に入るための鑑札でさあ」
番士が鑑札を見ると眉間に皺を寄せる。
「いかにもそれは当屋敷に入るための鑑札だが、ここの入口からは入れん。ここを西に廻っていけば、鑑札と同じ絵馬が掛っている裏門があるから、そこから中へ入れ」
「へえ」と答えて、塀伝いの道を進み鶏の絵馬が掛る門を捜した。
四半刻ほど塀にそって進むと、それらしい裏門があった。門に手を掛けるが、門は閉まっていた。
扉を叩くと、小さな門の上にある五寸(十五㎝)ほどの小窓が開く。
人の険しい目が覗く。
「土蔵の整理に来た人足ですが、こっちに廻るように命ぜられました」
虎の助が鑑札を見せると、小門が開く。
小門を開けてくれた番士の顔は険しい。
(何か、感じよくねえなあ)
門を潜ると、二町(二百メートル)離れたところに、縦横半町(約五十m)、高さ三丈(約九m)の土蔵があった。
さて、荷物運びを手伝おうと辺りを見回すが、辺りには荷物もなければ、人足もいない。
(あれ、妙だな? 荷物もなけりゃ、人もいやしねえ)
「お主が、宗右衛門が紹介してよこした、口入屋の虎之助か」
虎之助を呼ぶ声がしたので顔を向けると、そこには侍がいた。
武士の身長は虎之助と同じ、六尺(約百八十㎝)、体はがっしりしていた。四角い顔で目つきは鋭く、本田髷を綺麗に結っていた。
格好は、黒い羽織と若草色の袴を穿いて、きちんと刀を二本差していた。
侍が堂々と名乗る。
「拙者は中納言(徳川宗春)様に仕える蔵奉行である牛込 主 水 である」
(奉行って名乗るなら、お偉いさんか、こんな町人に何のようだ)
「へえ。確かに、あっしが虎之助でさあ。それで、仕事場は、どこですか?」
「とりあえず、こっちへこい」
牛込が向かったのは土蔵の入口だった。土蔵の入口の横には四坪の番所がある。番所の中に一人、外に四人の侍が土蔵の警備をしていた。
侍はいつでも、斬り合いができるように、襷で着物を結んでいた。
土蔵の入口には頑丈な閂(かんぬき)が掛けてあった。
「開けろ」と牛込が指示すると、侍の一人が緊張した顔で閂を開ける。
土蔵の中に入って、十歩進む。
縦横三間(約五m)の地下へ続く入口があった。
下を覗くと、階段は地の底に続いているようだった。
「何でえ。この階段は、どこまで続いているんだ」
牛込が真面目な顔で説明する。
「これは御府内(江戸)の地下に広がる妖怪たちが住む地下宮殿へと続く階段だ」
「へえ、御府内の街の下に妖怪の住処があったのか。そりゃは、河童や豆腐小僧も出るってもんだ。まさか、荷物はこの下ですかい?」
牛込はむすっとした顔で告げる。
「荷運びの件は、いい。手間賃は払う。ただし、この尾張家上屋敷に地下御殿への入口がある事実は、新庄宗右衛門以外には口外しないでもらおう」
「口外するなって、なら、何で見せたんでさあ。見せなきゃ、わかりゃしませんよ」
牛込は厳しい顔ではっきりと告げる。
「それは、お前を地下御殿への出入御免とするためだ。お前は必要と有れば鑑札を持ち、いつでも、この土蔵から地下御殿に入ることを認める。これは中納言(徳川宗春)様の御沙汰である」
虎之助は朱色の鶏が描かれた鑑札を見る。
「じゃあ、これからは、この鑑札を使って地下御殿に蕎麦を売りに行ってもいい、ってことですか?」
牛込が驚きの表情で疑う。
「妖怪相手に蕎麦を売りに行くなど、貴様は正気か」
「正気も、正気、昨日も人間が相手にしてくれないんで、狐や狢 を相手に蕎麦と酒を売っていましたよ。いい稼ぎになりやしたよ」
牛込は面白くなさそうな顔をして財布を取り出す。
「そうか。なら好きにしろ。それで、これは今回の手間賃だ」
牛込は一朱金一枚を虎之助に握らせる。
よく事情がわからないまま尾張徳川家の上屋敷を出る。
「偉え奴の考えることは、わからねえな。まあ、こちとら、商売ができる場所を紹介してもらって上に、金まで貰えたんだから、問題ねえか」
木戸番の老人が木戸に閂をする。虎之助は裏長屋の自分の家に行く。
虎之助の借りている部屋は間口が九尺(約二・七m)。奥行きは二間(約三・六m)の賃料五百文の棟割長屋だった。
家に帰ると、屋台を土間に置き、薄い布団を敷いて眠る。
「虎之助、虎之助はいるかい」
虎之助は名を呼ぶ男の声で目を覚ます。入口の腰高障子を開けると。昼の光が入ってくる。陽の光に照らされて一人の老人が立っていた。
老人の身長は六尺六寸(約百七十㎝)の長身で細身。髪は白髪の小銀杏髷。顔は四角く、髭はない。男前とは言わないが、愛嬌のある顔である。
名は
「どうした、御隠居さん、何か用けえ?」
御隠居は柔和な顔で尋ねる。
「蕎麦の屋台を出したんだって? どうだい、蕎麦屋の儲けは?」
「日中は、まるで売れなかったよ。でも、夜になると、横に豆腐屋が出たからね。豆腐と一緒に蕎麦と酒が、よく売れたよ」
「ほう、それはまた幸運だね。そんで、今、起きたのかい?」
「これから、昨日の蕎麦のあまりを喰って朝飯にするところだよ。御隠居も一緒にどうでえ。すぐ作るよ」
御隠居は遠慮がちに断った。
「私はいいよ。それより、飯の後でいいんだ。ちょいと頼まれてくれ。なに、難しい仕事じゃないよ。尾張様の上屋敷に行って土蔵の清掃の手伝いをしてきてくれないか。何でも、思ったより人足が集まらなくて困っているとか」
「いいよ、俺の本職は口入屋(便利屋)だ。力には、ちょいとばかし自信がある。屋台は仕事がない時の副業だからね。荷物の移動なんてのも、お手のものさ」
「そうか。なら、これが尾張様の上屋敷に入る鑑札だよ。持っていきなさい」
「あいよ」と虎之助は朱色の鶏が描かれた鑑札を受け取る。
虎之助は残りの蕎麦を蒸すと、ぺろりと食べて食事を済ませる。
尾張徳川の上屋敷は市谷の長屋から歩いてすぐの場所にある。
尾張徳川家の屋敷の白い塀が見えてくる。屋敷の入口の門から入ろうとすると、六尺棒を持った番士に止められた。
「ちょっと待て、そこの町人。ここは尾張様のお屋敷だ。お屋敷に何用だ?」
「何って、お屋敷の土蔵の清掃を手伝いにきました。これ、お屋敷に入るための鑑札でさあ」
番士が鑑札を見ると眉間に皺を寄せる。
「いかにもそれは当屋敷に入るための鑑札だが、ここの入口からは入れん。ここを西に廻っていけば、鑑札と同じ絵馬が掛っている裏門があるから、そこから中へ入れ」
「へえ」と答えて、塀伝いの道を進み鶏の絵馬が掛る門を捜した。
四半刻ほど塀にそって進むと、それらしい裏門があった。門に手を掛けるが、門は閉まっていた。
扉を叩くと、小さな門の上にある五寸(十五㎝)ほどの小窓が開く。
人の険しい目が覗く。
「土蔵の整理に来た人足ですが、こっちに廻るように命ぜられました」
虎の助が鑑札を見せると、小門が開く。
小門を開けてくれた番士の顔は険しい。
(何か、感じよくねえなあ)
門を潜ると、二町(二百メートル)離れたところに、縦横半町(約五十m)、高さ三丈(約九m)の土蔵があった。
さて、荷物運びを手伝おうと辺りを見回すが、辺りには荷物もなければ、人足もいない。
(あれ、妙だな? 荷物もなけりゃ、人もいやしねえ)
「お主が、宗右衛門が紹介してよこした、口入屋の虎之助か」
虎之助を呼ぶ声がしたので顔を向けると、そこには侍がいた。
武士の身長は虎之助と同じ、六尺(約百八十㎝)、体はがっしりしていた。四角い顔で目つきは鋭く、本田髷を綺麗に結っていた。
格好は、黒い羽織と若草色の袴を穿いて、きちんと刀を二本差していた。
侍が堂々と名乗る。
「拙者は中納言(徳川宗春)様に仕える蔵奉行である
(奉行って名乗るなら、お偉いさんか、こんな町人に何のようだ)
「へえ。確かに、あっしが虎之助でさあ。それで、仕事場は、どこですか?」
「とりあえず、こっちへこい」
牛込が向かったのは土蔵の入口だった。土蔵の入口の横には四坪の番所がある。番所の中に一人、外に四人の侍が土蔵の警備をしていた。
侍はいつでも、斬り合いができるように、襷で着物を結んでいた。
土蔵の入口には頑丈な閂(かんぬき)が掛けてあった。
「開けろ」と牛込が指示すると、侍の一人が緊張した顔で閂を開ける。
土蔵の中に入って、十歩進む。
縦横三間(約五m)の地下へ続く入口があった。
下を覗くと、階段は地の底に続いているようだった。
「何でえ。この階段は、どこまで続いているんだ」
牛込が真面目な顔で説明する。
「これは御府内(江戸)の地下に広がる妖怪たちが住む地下宮殿へと続く階段だ」
「へえ、御府内の街の下に妖怪の住処があったのか。そりゃは、河童や豆腐小僧も出るってもんだ。まさか、荷物はこの下ですかい?」
牛込はむすっとした顔で告げる。
「荷運びの件は、いい。手間賃は払う。ただし、この尾張家上屋敷に地下御殿への入口がある事実は、新庄宗右衛門以外には口外しないでもらおう」
「口外するなって、なら、何で見せたんでさあ。見せなきゃ、わかりゃしませんよ」
牛込は厳しい顔ではっきりと告げる。
「それは、お前を地下御殿への出入御免とするためだ。お前は必要と有れば鑑札を持ち、いつでも、この土蔵から地下御殿に入ることを認める。これは中納言(徳川宗春)様の御沙汰である」
虎之助は朱色の鶏が描かれた鑑札を見る。
「じゃあ、これからは、この鑑札を使って地下御殿に蕎麦を売りに行ってもいい、ってことですか?」
牛込が驚きの表情で疑う。
「妖怪相手に蕎麦を売りに行くなど、貴様は正気か」
「正気も、正気、昨日も人間が相手にしてくれないんで、狐や
牛込は面白くなさそうな顔をして財布を取り出す。
「そうか。なら好きにしろ。それで、これは今回の手間賃だ」
牛込は一朱金一枚を虎之助に握らせる。
よく事情がわからないまま尾張徳川家の上屋敷を出る。
「偉え奴の考えることは、わからねえな。まあ、こちとら、商売ができる場所を紹介してもらって上に、金まで貰えたんだから、問題ねえか」