第十二話 弁財入道との初犬問答

文字数 3,520文字

 四月三日、日が昇るかどうかという明六ツ刻に、末次の船は江戸の魚河岸に着いた。
 競人がやってきたので、末次が船の生簀の中の鰹を全部そっくり渡した。
 少しの間おいて「一番鰹。末次」と誰かが叫ぶ。

 先輩漁師が顔を綻ばせる。
「やったぜえ、一番鰹を運んだのは俺たちの船だ」
 鰹が水揚げされるや否や、競が始まる。
「一両」「三両」「十両」「二十両」とあがり「三十両!」の掛け声が出ると、競は止まった。
「はい、今年の一番鰹は三十両で、尾張中納言様」

 尾張徳川家の台所奉行が初鰹の入った桶を、若い下士に持たせて堂々と帰っていく。
 そのあと遅れて、二艘目、三艘目の船が入ってきて、初鰹の競が行われた。
 昼までに初鰹の売れた代金が末次の元に集められ、分配が行われる。
「ほら、虎之助。これがお(めえ)の取り分だ」

 末次はきっかり十両を渡してくれた。
「ありがてえ、俺はこれから、ちとやることがあるから、ここでお別れしやす」
 末次と別れると、朝風呂に入ってひと眠りする。
 暮六ツ刻に起き出して、地下御殿に行く。
「胡蝶さん、胡蝶さん」と叫んで歩くと、胡蝶が姿を現した。

 胡蝶は虎之助を見下すように抗議する。
「そんな、売り物のように私の名前を呼ぶんじゃないよ。それで、用意できたのかい十両」
「ほら、ここに」と巾着から小判十両を取り出して見せる。
 胡蝶が小判を手に取ろうとしたので、すぐに引っ込める。
「おっと、十両は尾張中納言(徳川宗春)様の犬と引き換えだよ」

 胡蝶がむっとした顔で愚痴る。
「もう、金だけ取りゃしないよ、信用がないね」
「こっちだよ」と胡蝶が歩き始めるので、従いて行く。
 胡蝶は地下御殿を南に歩いていった。
「弁財入道のお屋敷って、どこら辺にあるんでえ?」

 胡蝶が澄ました顔で答える。
「御府内なら、ちょうど紀伊徳川家の中屋敷の地下かねえ。広さも規模も地上の紀伊徳川家の中屋敷と同じ規模さ」
「てえっと、かなり大きなお屋敷だねえ」

 胡蝶はふふんと笑って告げる。
「そうさ、金も力もあり、多くの妖怪を従える。妖怪大名ってところだね」
「へえ、妖怪にも大名とかあるんだねえ」

「妖怪大名は物のたとえさ。それだけ力があるっていいたいのさ。ただ、人間は嫌いだから、見つかる前に犬を手に入れたら(けえ)るよ」
「わかりやした」

 しばらくすると、大きな屋敷が見えてきた。
(立派、立派、人間の大名にも負けねえくらい立派なお屋敷だ)
 屋敷の裏門に行く、四人の骸骨の番士がいた。
 胡蝶が何やら番士の一人と話すと、胡蝶だけ門の中に入れてくれた。

 胡蝶が厳しい口調で命じる。
「お前は門の外で待っていな。私が犬を連れてくるよ」
 胡蝶が屋敷の中に行くのを黙って見守った。
 胡蝶がいない間、骸骨の番士に「お仕事がご苦労ですね」とか「弁財入道様ってどんな妖怪ですけえ?」と聞くが、外方(ほかざま)を向いたまな相手にされなかった。

(これは人間が嫌われているね)
 胡蝶はそれほど時間を待たせずに、籠に入った犬を持って来た。
 犬は子犬で、ぐったりしていた。
「おい、犬がぐったりしてるぜ、随分と活きが悪いな」

 胡蝶は気にした様子もなく素っ気なく答える。
「地下御殿に長くい過ぎて、悪い気を吸いすぎたんだろう。なあに、地上に持って行けば元気になるさ」
 犬の首を確認する。犬の首には三つ葉葵の御紋が入った首輪があった。
(徳川家といえば三つ葉葵の御紋だ。徳川家から犬の脱走なんてねえから、この犬で間違いねえだろう。それに、この白っぽい十三本の茎のあるやつは尾張徳川家でよく見たぜ)

「よし、この犬で間違いねえ。ほら、十両ある。数えてくんな」
 胡蝶がしっかりと小判を数える。
「確かに、十両あるね。さあ、面倒な展開になるめえに、さっさと帰んなよ」

「待てっ」と男の低い声が上からする。
 見上げれば天井から煙の大きな塊が飛んできて、虎之助の前に下りる。煙が固まると中から、身の丈、一丈(約三m)にもなる大男となった。
 男の頭髪はなく、髭面。目の代わりに小判が顔に三枚、張り付いている。大男は黒地に銭の模様が入った着物を着て、銀の腕輪をして、金の草鞋を履いていた。

 胡蝶が呟く声が聞こえる。
「あちゃー、弁財入道に見つかっちまった」
 弁財入道が虎之助を見下ろし、凄む。
「人間が(わし)の屋敷から何を持ち出す」

 虎之助は物怖じすることなく言い返す。
「持ち出すも何も、俺は犬を買いに来たんだよ。犬の代金なら、そこの胡蝶さんに払ったぜ」
 弁財入道の顔にある小判に目が現れて、胡蝶を睨む。
 胡蝶は(ばつ)がわるそうな顔で申告する。
「虎之助の言うとおりですよ。犬を十両で買いたいと頼むので、売りました。ほら、代金は、ここにあります」

「ほほう」と弁財入道は小判を見て表情を緩める。だが、すぐに、怖い顔になる。
「犬を売ってはやろう。だが、十両では売れねえ。もう、十両を持ってこい」
 虎之助は、かちんと来た。しかし相手は一丈の大男、まともにぶつかっても勝てない。
 裏門には屋敷内にいた妖怪たちが集まってきており、怖い顔で虎之助を睨みつけている。

 虎之助は毅然とした態度で、犬の入った籠を胡蝶に突き出した。
「二十両はねえ。だったら、犬を返すから、十両を返してくれ」
 弁財入道はむっとした顔で命ずる。
「そんな、犬は要らねえ。だから、もう、十両もってこい」

「そいつは筋が通らねえ。俺は胡蝶さんが十両で犬を売るから、金を用意したんだ。十両じゃねえと買わねえ」
「人間。ここはどこで、儂は誰だと思っている」

「御府内だろうと、地下御殿だろうと、関係ない。また、相手が大樹様(将軍のこと)だろうと弁財入道様だろうと、関係ねえ。信義に劣るやつは、みな、でえ嫌(きれ)えだ」
 弁財入道が鼻で笑った。
「よかろう、なら、十両を返(けえ》すから、犬をこちら戻せ」

(ははあん、そうすれば、俺が困って値上げを飲むと思ってやがるな。そうはいくかってんだ)
「おう、いいぜ。ほら、胡蝶さん。犬と十両を交換だ」

 虎之助が強気に出ると、弁財入道は十両が惜しいと思ったのか止める。
「待て、本当に犬と十両を交換してもいいのか? もう犬は手に入らねえぞ」
「俺も惜しいと思うが、犬は諦める。ここでぐずぐずしていいたら夜が明ける?」

 弁財入道がわけがわからぬ態度で訊く。
「夜が明けると、何がまずいのか?」
「四月四日になっちまう。つまり、犬は初物ではなくなる。初物でなくなりゃ十両の価値はねえ」

 弁財入道は怖い顔で怒った。
「馬鹿を申すな。犬に初物なんかねえだろう」
「俺は馬鹿かもしれねえが江戸っ子だ。初物にはちょいと右流左死(うるせえ)よ。『初犬の、鳴き声ききつ、ほととぎす、ともに初音の、高う聞える』って狂歌を知らねえのか」
 弁財入道が「うん?」と首を傾げるので、さらにもう一つ嘘を教える。

「『甘茶の、銭では買えぬ、初犬よ』って川柳があるくらい、初犬は流行なんだよ」
「本当か?」と裏門内に集まる妖怪に弁財入道が尋ねる。
 妖怪たちも聞いた覚えがないと顔を見合わせる。

「そういえば、そんな狂歌を聞いたような」と言い出す豆腐小僧がいた。
(豆吉さんだ。助けてくれるとは、ありがてえな)
「おお、拙者もそんな川柳を聞いた覚えがある」と言い出す薬缶の妖怪がいた。
(タダで酒を飲ませた、いつぞやの薬缶の妖怪さんか、助かるぜ)

 知っている妖怪が二人出ると、「そういえば」「そういえば」と、ないはずの狂歌や川柳を聞いた妖怪たちが現れる。そのまま、妖怪たちの間で議論になる。
 そうすると、弁財入道が「初犬」があるのか、ないのか、を決められずに困った。
(迷っている。迷っているぜ。初犬が本当なら明日には十両では売れねえ。だが、嘘なら、明日にはもっと高く売れるかもしれねえ。この欲の駆け引きが、弁財入道の中で起きている)

 胡蝶が弁財入道の袖を引く。
「弁財入道の旦那。ここは、十両で手を打ったほうがお得ですよ。初犬の話が本当なら明日には価値がなくなっちまいます。それに、もとはタダで拾った犬ころでしょう」
 胡蝶の言葉で弁財入道が決心した。
「わかった。なら、十両でいい。今回だけの格別価格だぞ」
(おっと、引っ掛かったね)

「へい、ではこれで失礼しやす。早く、帰えらねえと初犬が終わっちまう」
 虎之助は弁財入道の屋敷から逃げるようにして走って帰った。
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