第六話 商売替え

文字数 2,968文字

 風呂屋の騒動のあと二日間に亘って蕎麦の屋台を出した。だが、虎之助の蕎麦屋は売り上げがぱっとしなかった。御隠居に味を見てもらう。
「不味くはねえが、美味くもないねえ」との評価だった。
 味がよくなければ、立地で勝負したいところだ。だが、いい場所には虎之助より美味い蕎麦屋の屋台が出ている。

 同じ値段なら、美味いほうを喰うのが人だ。
 値下げも考えた。だが、他の蕎麦屋に負けたような気がして、する気が起きなかった。
 それに、安く売るなら、数を売らなければならない。だが、そこまで蕎麦が売れるとは思えなかった。
「御府内(江戸)の蕎麦屋はどこに行っても競争が激しいぜ」

 虎之助は人間相手の商売を諦めた。以前に豆吉に教えてもらった場所も、なぜか妖怪がめっきり見えなくなり、売り上げは、ほとんどなかった。
「こうなったら、もっと妖怪がいる場所に行くしかねえか」
 蕎麦の屋台を担いで宵五ツに、鑑札を片手に、尾張徳川の上屋敷に出かける。

 土蔵の前に行くと、武士、僧侶、陰陽師、巫女の格好をした四人組がいた。
 四人組は、蕎麦屋の屋台を担いだ虎之助を、珍奇な見世物のようにじろじろ見る。
 四人組の頭と思われる武士が話し掛けてくる。
「拙者は地下宮殿に挑まんとする者。そなたは、こんなところで、何をやっておるのだ?」
「何って、この格好が大工や魚屋に見えるかい。俺は蕎麦屋だよ。地下御殿に蕎麦売りに行くんだよ」

 武士が驚いた。
「妖怪相手に蕎麦を売るのか?」
「だから、そう言っているだろう。人間相手じゃ、競争が厳しいんだよ」
 四人組は、まるで阿呆でも見るような顔をしてから、顔を見合わせる。
(なんか、感じの悪い奴らだな)

 土蔵の扉が開くと、先に四人組が階段を下りてゆく。
 番士にちょっと話し掛ける。
「なんか、感じの悪い奴らだな。何者でさあ、あいつら?」

 番士は顔を(しか)めて諭す。
「むこうが真っ当なんだよ。この先の地下御殿には、お宝も財宝もあるからねえ。それを目当てに探索に下りる人間のほうが多い。なら、むこう真っ当だろう」
「妖怪だから宝を奪ってもいいって根性が、俺は気に入らねえな。俺は馬鹿にされても、正直に蕎麦で稼ぐよ」

「好きにしたらいいさ。中納言(徳川宗春)様のためになれば、どっちでもいい」
 番士と話をしても分かり合えそうになかったので、話を切り上げる。
 土蔵から下へと続く、階段を進む。階段は数えると、百八段もあった。百八段の階段を下りた先に高さ一丈(三m)幅一丈(三m)の祠が出口になっていた。
(この祠が中納言様のお屋敷と地下御殿の境界ってところか)

 尾張徳川家の上屋敷から地下御殿に足を踏み入れた。天井を見ると、天井までは三十丈(約三十m)もあった。地面の代わりに、曇り空のようにどんより薄暗い空のようなものがあった。
 辺りをぐるりと見渡すと、広大な更地が広がっているのみ。
(どうやら、中納言様のお屋敷のある場所の地下は、地下御殿では更地になっているようだな)

 辺りを見回せど、人もおらねば、妖怪もいない。
「おいおい、地下御殿には妖怪がわんさかじゃねえのかよ。これじゃあ、商売になりゃしねえ。とりあえず場所移動だな」
 屋台を担いで、移動するにしても、さてどっちに行けばいいのかわからない。

 とりあえず、更地から妖怪のいそうな場所に移動する。
(尾張徳川家上屋敷の地面の下は更地だったな。すると、他の場所はどうなっているんでえ)
 更地からまっすぐ歩いて行くと街がきちんと広がっていた。
 長屋を右手に見ながら進むと、堀端に出たので店を出す。

 すると、狐や狸たちがどこともなく現れて、様子を窺う。
「そばー、二八そば」と声を掛けても、逃げていくだけだった。
(こりゃ、駄目だな。俺の姿を見てみんなびっくりしてらあ)

 すると、人間の頭の代わりに、薬缶がついた身の丈六尺の、武士のような妖怪が姿を現す。
 薬缶に目鼻が現れ、妖怪は毅然とした態度で尋ねる。
「おい、人間、ここで何をしておる」
「へえ、蕎麦の屋台を出しています。よろしかったら、一枚どうですか。盛り蕎麦一枚が十六文。酒は一合四文ですが、最初のお客なので、酒一合はタダにしやす」

 妖怪は気をよくした。
「なんだと、酒一合がタダとな。拙者、タダには弱い。酒一合と蕎麦を貰おうか」
 銭を受け取り、蕎麦と酒を提供する。
 薬缶は蕎麦を食べながら訊く。
「お主、この場所は誰に訊いた?」

「誰にってことは、ありませんね。御府内では、ちょうどこの真上くらいの地上に、よく屋台を出していたもので」
 妖怪は怪訝な顔で尋ねる。
「なら、なんで、御府内で商売せず、地下御殿に蕎麦を売りに来た」

「それは御府内じゃ、蕎麦屋が多すぎて、あっしのような蕎麦屋は売れないんでさあ」
「そうか、人の世も難儀だな。あと、そうだな。酒をもう一合タダにしてくれたら、有用な助言をしてやろう」

「もう一杯タダですかい。わかりやした。その代わり、きちんと有用な話をお願いしますよ」
 空になった升に酒を一合注ぐと、薬缶の妖怪が飲み干す。
「ここ地下御殿に屋台を出すなら、蕎麦より(すし)(うなぎ)天婦(てんぷ)()のような、魚を使った屋台がいいぞ。地下御殿の妖怪は誰もが、魚好きだ」

「そうなんですかい。そいつは知らなかった」
「なかでも、コハダ鮨は皆が食べたがっておる。あれほど縁起のよい魚は、いねえ。今度、騙されたと思って、鮨の屋台を出してみろ。面白いように売れるぞ」

「そいつはいい話を聞きやした」
 薬缶の妖怪を見送る。薬缶の妖怪が帰った後は好奇心が旺盛な妖怪が三人訪れたが、客は五人に満たなかった。

 地下御殿から尾張徳川家の上屋敷に帰ると夜が明けていた。
 空が明るかったので御隠居の家に蕎麦の屋台を持っていく。
「御隠居はいるけえ。俺だよ、虎之助だよ」

 御隠居が機嫌よく出てきた。
「どうしたい? 何か困りごとか」
「借りていた蕎麦屋の屋台を返しやす」

 御隠居は関心を示して訊いてくる。
「蕎麦屋を辞めて、どうしようってんだい。まさか、朋輩(ほうばい)を集めて地下御殿に挑む気になったのけえ?」
「そうじゃねえよ。商売替えだ。俺は鮨屋をやりてえ」

 御隠居の顔が曇る。
「蕎麦屋が儲からないからって、鮨屋を始めても、同じような気がするけどねえ」
「いや、蕎麦より、鮨が売れるって聞いた」

 御隠居は虎之助の申し出をあっさり受けた。
「いいだろう。回向院の住職の円空さんには虎之助をよろしく頼むと頼まれておるからねえ。借りていた蕎麦屋の屋台を返して、鮨屋を始める道具を借りてきてあげるよ」
「ありがてえ。道具の準備に、これだけあれば足りるかな」

 一朱金を見せると、御隠居が受け取る。
「これだけあれば、お釣りが来るよ」
 夕方前には米、酢、塩、それと魚と酢飯をいれる箱を御隠居が用意してくれた。

「鮨は魚を捌いて塩と酢で締める。締めた魚を酢飯と一緒に箱に詰めて数刻から一晩置けば完成だよ」
「魚は捌けるから、それほど難しくねえな。さっそく、明日は魚を買って作ってみるか」
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