第七話 鮨屋とコノシロ
文字数 2,168文字
翌朝、虎之助はコノシロ売りの掛け声で目を覚ました。
「おう、魚屋の喜平さん。朝が早いね。コノシロを売ってくれ」
喜平の身の丈は五尺二寸(百六十㎝)、本田髷を結った十六くらいの男性だった。
「はいよ、何匹でえ」
喜平の桶を見ると、コノシロが二十匹、泳いでいた。
「鮨屋を始めようと思っているから、全部、貰うよ。いくらでえ」
「全部で百六十文になりやす。魚は全部こっちで捌(さば)きましょうか」
「よろしく、頼むよ」
喜平がコノシロから頭と尻尾を外していく。
虎之助は飯を炊き、酢飯の支度をしながら尋ねる。
「今の時季のコノシロはどうでえ」
喜平が威勢よく答える。
「コノシロは年中、獲れる魚ですが。今朝はコノシロが大量に上がりやした。魚河岸中がコノシロだらけでさ」
「そうか、それは幸先がいいな」
「でも、今日から鮨屋を始めようとする虎之助さんに教えるのはなんですが、魚河岸中にコノシロが溢れた状況は、他にも安く鮨屋が仕入れたってことでさあ」
「それがなにか問題けえ?」
「コハダ鮨は安売り合戦になるかもしれませんよ」
「大丈夫。大丈夫。俺には勝算がちゃんとある」
飯が炊き上がると、酢飯にして冷ます。飯を冷ましている間に、コノシロを塩と酢で締めて準備する。最後に酢飯とコノシロを木箱に入れて、ぎゅっと押す。
「よし、これで、あとは夜まで待って売りに行く」
一眠りして夜を待つ。暮六ツ刻に起き出す。箱から鮨を取り出す。箱は洗って干しておく。鮨に包丁を入れ、適当な大きさにして、笹の葉で巻く。桶に入れて天秤棒で担ぎコハダ鮨の棒手振りのでき上がりだ。
虎之助は天秤棒を担いで地下御殿に出かける。地下御殿に入って昨日の場所を目指して歩いていこうとすると、誰かが後ろを尾 けてくる気配がした。
あまり気分のよいものではないので、振り返って声を出す。
「誰でえ、この虎之助を尾けてくるのは?」
すると、なにもない空間から朱色の着物を着た、乱れ髪の女の妖怪が現れた。
女の妖怪は身の丈が五尺(百五十㎝)と大きく、真っ白い顔をして、唇だけが真っ赤に赤い。
女の妖怪は白い歯を見せて、にたりと笑う。
「私の名は胡蝶。あんたの持ち物。それは鮨だね? 酢の香がする」
「おうよ。これは今朝に獲れたコノシロを三刻寝かせて作ったコハダ鮨よ」
胡蝶は素っ気ない態度で尋ねる。
「それは、いくらだい?」
「なんでえ、客けえ? そうならそうと早く教えてくれよ。鮨は一貫で八文だよ」
「全部で何貫あるんだい」
「全部で八十貫あるね」
「なら、全部を売っとくれ」
(すごいね、即完売したよ。地下宮殿は侮り難しだねえ)
胡蝶が巾着を差し出し、一朱金二枚と四文銭十枚を払う。
胡蝶はコハダ鮨を抓(つま)み上げて次々と食べ出す。
「これは、塩が効きすぎている。こっちは酢が効いていない。やれ、飯が硬いだ、柔らかいだの」と胡蝶は始終たらたら文句を口にしながらコハダ鮨を食べる。
(そんなに文句があるなら喰わなきゃいいだろう)
だが、既にお代を受け取っているので、黙って言葉を飲み込む。
「お客さん、コハダ鮨が嫌いなんですか?」
「コノシロはあまり好きじゃねえが、この城を喰う、江戸城を喰う、に繋がるって縁起がいいから好きなんだよ」
(なんでい、なんだかんだと言ったって好きなんだろう。あの薬缶の妖怪が教えてくれたように、御府内の妖怪は魚が好きなんだな)
胡蝶はけっきょく、八十貫全てを一人で平らげた。
「人間ってのは嘘吐きで、泥棒で、喧嘩師なところがあるから嫌いだ。けど、こんな鮨なんてものをつくるから侮り難い」
(褒められているのか?)
「へえ、どうも」と頭を下げる。
「それで、虎之助さん、あんた明日も鮨を売りにくるのかい」
「明日の朝もコノシロがあがれば売りにきやす」
胡蝶は機嫌よく返す。
「そうか、わかったよ。明日も会えるといいねえ」
「一つ、いいですか。鮨より魚が好きなら魚を仕入れてきましょうか」
胡蝶が鼻で笑って馬鹿にする。
「なに、馬鹿なこと言っているんだい。人間は魚を朝に獲る。私たち妖怪が活動する夕方から夜だ。その間に魚は悪くなっちまう。だから、鮨みたいな料理がいいのさ」
「へえーそりゃいい話を聞いた。鮨はしばらく売れそうだな」
江戸に帰ると、まだ夜四ツ前だったので、長屋に帰って眠る。
次の日も喜平の「コノシロ」売りの掛け声で目が覚める。再び、コノシロを買ってコハダ鮨を作る。そのまま、昼に作って暮六ツまで寝かして、鮨にして地下御殿に売りに行く。
顔の代わりに瓢箪が付いた妖怪と、赤鬼を連れて胡蝶が現れた。
虎之助が威勢よく告げる。
「今日も、八十貫を用意してきました」
「よし、全部貰うわ」
胡蝶はコハダ鮨を買い上げると、妖怪たち三人で食べる。だが、やはり、「飯が硬い、塩が効きすぎ、酢が薄い」と文句を言いながら食べる。
「こりゃあ文句を言いながら喰うのは一種の儀式だな」と諦めて黙って喰うのを見ていた。
鬼はその後、酒はないかと訊くので、翌日は酒を用意して売りに行く。
酒も用意すると、大いに喜ばれた。地下御殿での虎之助のコハダ鮨売りは順調だった。
「おう、魚屋の喜平さん。朝が早いね。コノシロを売ってくれ」
喜平の身の丈は五尺二寸(百六十㎝)、本田髷を結った十六くらいの男性だった。
「はいよ、何匹でえ」
喜平の桶を見ると、コノシロが二十匹、泳いでいた。
「鮨屋を始めようと思っているから、全部、貰うよ。いくらでえ」
「全部で百六十文になりやす。魚は全部こっちで捌(さば)きましょうか」
「よろしく、頼むよ」
喜平がコノシロから頭と尻尾を外していく。
虎之助は飯を炊き、酢飯の支度をしながら尋ねる。
「今の時季のコノシロはどうでえ」
喜平が威勢よく答える。
「コノシロは年中、獲れる魚ですが。今朝はコノシロが大量に上がりやした。魚河岸中がコノシロだらけでさ」
「そうか、それは幸先がいいな」
「でも、今日から鮨屋を始めようとする虎之助さんに教えるのはなんですが、魚河岸中にコノシロが溢れた状況は、他にも安く鮨屋が仕入れたってことでさあ」
「それがなにか問題けえ?」
「コハダ鮨は安売り合戦になるかもしれませんよ」
「大丈夫。大丈夫。俺には勝算がちゃんとある」
飯が炊き上がると、酢飯にして冷ます。飯を冷ましている間に、コノシロを塩と酢で締めて準備する。最後に酢飯とコノシロを木箱に入れて、ぎゅっと押す。
「よし、これで、あとは夜まで待って売りに行く」
一眠りして夜を待つ。暮六ツ刻に起き出す。箱から鮨を取り出す。箱は洗って干しておく。鮨に包丁を入れ、適当な大きさにして、笹の葉で巻く。桶に入れて天秤棒で担ぎコハダ鮨の棒手振りのでき上がりだ。
虎之助は天秤棒を担いで地下御殿に出かける。地下御殿に入って昨日の場所を目指して歩いていこうとすると、誰かが後ろを
あまり気分のよいものではないので、振り返って声を出す。
「誰でえ、この虎之助を尾けてくるのは?」
すると、なにもない空間から朱色の着物を着た、乱れ髪の女の妖怪が現れた。
女の妖怪は身の丈が五尺(百五十㎝)と大きく、真っ白い顔をして、唇だけが真っ赤に赤い。
女の妖怪は白い歯を見せて、にたりと笑う。
「私の名は胡蝶。あんたの持ち物。それは鮨だね? 酢の香がする」
「おうよ。これは今朝に獲れたコノシロを三刻寝かせて作ったコハダ鮨よ」
胡蝶は素っ気ない態度で尋ねる。
「それは、いくらだい?」
「なんでえ、客けえ? そうならそうと早く教えてくれよ。鮨は一貫で八文だよ」
「全部で何貫あるんだい」
「全部で八十貫あるね」
「なら、全部を売っとくれ」
(すごいね、即完売したよ。地下宮殿は侮り難しだねえ)
胡蝶が巾着を差し出し、一朱金二枚と四文銭十枚を払う。
胡蝶はコハダ鮨を抓(つま)み上げて次々と食べ出す。
「これは、塩が効きすぎている。こっちは酢が効いていない。やれ、飯が硬いだ、柔らかいだの」と胡蝶は始終たらたら文句を口にしながらコハダ鮨を食べる。
(そんなに文句があるなら喰わなきゃいいだろう)
だが、既にお代を受け取っているので、黙って言葉を飲み込む。
「お客さん、コハダ鮨が嫌いなんですか?」
「コノシロはあまり好きじゃねえが、この城を喰う、江戸城を喰う、に繋がるって縁起がいいから好きなんだよ」
(なんでい、なんだかんだと言ったって好きなんだろう。あの薬缶の妖怪が教えてくれたように、御府内の妖怪は魚が好きなんだな)
胡蝶はけっきょく、八十貫全てを一人で平らげた。
「人間ってのは嘘吐きで、泥棒で、喧嘩師なところがあるから嫌いだ。けど、こんな鮨なんてものをつくるから侮り難い」
(褒められているのか?)
「へえ、どうも」と頭を下げる。
「それで、虎之助さん、あんた明日も鮨を売りにくるのかい」
「明日の朝もコノシロがあがれば売りにきやす」
胡蝶は機嫌よく返す。
「そうか、わかったよ。明日も会えるといいねえ」
「一つ、いいですか。鮨より魚が好きなら魚を仕入れてきましょうか」
胡蝶が鼻で笑って馬鹿にする。
「なに、馬鹿なこと言っているんだい。人間は魚を朝に獲る。私たち妖怪が活動する夕方から夜だ。その間に魚は悪くなっちまう。だから、鮨みたいな料理がいいのさ」
「へえーそりゃいい話を聞いた。鮨はしばらく売れそうだな」
江戸に帰ると、まだ夜四ツ前だったので、長屋に帰って眠る。
次の日も喜平の「コノシロ」売りの掛け声で目が覚める。再び、コノシロを買ってコハダ鮨を作る。そのまま、昼に作って暮六ツまで寝かして、鮨にして地下御殿に売りに行く。
顔の代わりに瓢箪が付いた妖怪と、赤鬼を連れて胡蝶が現れた。
虎之助が威勢よく告げる。
「今日も、八十貫を用意してきました」
「よし、全部貰うわ」
胡蝶はコハダ鮨を買い上げると、妖怪たち三人で食べる。だが、やはり、「飯が硬い、塩が効きすぎ、酢が薄い」と文句を言いながら食べる。
「こりゃあ文句を言いながら喰うのは一種の儀式だな」と諦めて黙って喰うのを見ていた。
鬼はその後、酒はないかと訊くので、翌日は酒を用意して売りに行く。
酒も用意すると、大いに喜ばれた。地下御殿での虎之助のコハダ鮨売りは順調だった。