第一話 河童と豆腐小僧

文字数 3,624文字

 江戸の町の真下に、地下御殿と呼ばれる妖怪の街があった。
 これは地下御殿と呼ばれた妖怪の街と、人間の江戸の街を行き来する数奇な運命の男の話である。
 * * *
 享保二年三月十日(一七一七年四月二十一日)の宵五ツ(午後八時半頃)の江戸の町。
 暗い堀の付近で屋台を出している蕎麦屋があった。堀の周りに人通りは寂しく、客足は全くない。
 屋台の店主の見かけは十八歳。身長は身の丈は六尺(約百八十㎝)と高い。がっしりとした体格の男である。ただ、髭はしっかりと剃られ、髪は総髪。丸顔で気の優しそうな顔をしていた。名を虎之助という。

 虎之助は今日、初めて天秤棒を担いで蕎麦の屋台を出していた。
「全く、客足がこねえな。場所が悪いのかねえ。でも、いい場所はとっくに、もう他の蕎麦屋が押さえちまっているからなあ」
 虎之助の立っている場所は四谷(よつや)御門(ごもん)と市谷(いちがや)御門の中間の外堀の西側。
江戸の立地でいえば尾張徳川家上屋敷の南にあたる。

 パシャリと堀で何かが跳ねる。魚かなにかだと思って気にしなかった。だが、次の瞬間ザパンと音がして、身の丈五尺(約百五十㎝)の緑色の河童が飛び出してきた。
 河童は虎之助をギロリと睨んで凄む。
「やい、人間。ここは、人間がいていい場所ではねえ。即刻に立ち去れ」

 河童に凄まれても虎之助は動じない。むしろ、銭を持っていれば、客は妖怪でもよかった。
「おう、江戸の河童は威勢がいいね。一杯やっていくか。胡瓜(きゅうり)はねえが、蕎麦ならある。蕎麦一杯が十六文で、酒は一合で四文だ」
 河童は耳まで裂けた口を大きく開き、歯を見せて脅かす。
「なに、その天秤棒にぶらさがった大きな箱には食い物と酒が入っているだと。ならば、その箱と酒を置いてゆけ」

 虎之助は負けじと言い返す。
「馬鹿を言っちゃいけねえよ。どこの世界に銭も貰わずに商品を置いて立ち去る蕎麦屋の屋台がいるってんだ。蕎麦を喰いたきゃ銭を払いな」
 河童は怒鳴った。
「なんだと、人間ごと気に払う銭はねえ。痛い目に見ないうちに帰(けえ)りやがれ」

「言いやがったな、胡瓜野郎。だったら、蕎麦を諦めやがれ」
 河童がいきり立つ。
「なんだとやるか、人間風情が」

「おう、こっちは、それでも構わないぜ」
 虎之助が立会いの姿勢を取る。
 すると、河童も相撲なら自信があるのか、立会いの姿勢をとる。
「はっきよい、残った」と虎之助が身を低くして突進する。

 河童も負けじと突き進む。
 両者ががっぷり組むと「えいやっ」と虎之助は一息に河童を投げ飛ばした。
 空を飛ぶ河童。河童はそのままサブンと堀に落ちる。
 堀を見ると、泡が上がってきていた。
「どうだ、見たか。この、とんちきが」

 河童が堀からまた飛び出してきた。
「まて、もう一番」と河童が真剣な顔で頼む。
「何度やっても同じだよ」
 虎之助と河童が再度ぶつかる。ザブンと河童が堀に投げ込まれる。

 さらに、河童が堀から飛び出して弱気な顔で頼む。
「待て、もう一番」と頼むので、相撲を取る。
 だが、虎之助は、またも河童も堀に投げ入れる。
 さすがに、三度も相撲で負けて、堀に落とされて河童は、すぐに出てこなかった。

 これで片付いたかと思うと、河童はいそいそと堀を登ってきた。
「なんだ? まだ、やるのか? 懲りねえ河童だな」
 河童は改まった顔で尋ねる。
「いや、待て。お前、河童相手に相撲で三番続けって勝つなんて人間のできる業じゃねえ。いってえなにが化けてやがる? 力の強さからいって狐や狸の類ではねえな」

「なにを抜かしやがる、俺は人間の虎之助だ」
 カランコロンと下駄の音が聞こえてきた。
 見ると、暗闇の向こうから笠を被って、天秤棒を担いだ小僧がやってくる。
 小僧は河童と虎之助の傍まで来やってきた。小僧は白い顔をしており、天秤棒の前後の盥(たらい)に豆腐を入れていた。

 豆腐に紅葉(もみじ)の模様が入っていた。
「俺(おいら)は豆腐小僧。どうしたんでえ、こんなところで揉めて。そんなに、大きな音を立てたら、人間がやってくるよ」
「俺は虎之助で人間だ。どうしたも、こうしたも、ねえよ。そこの文無しの河童がタダで蕎麦を寄越せって難癖を付けて来たんだよ」

 河童は苛立った顔で異を唱える。
「文無しじゃねえよ。銭なら、あらあな」
「ならなんで、銭を払わねえって、文句を垂れるんだ。ほしいなら、買やぁいいだろう」

 河童が膨れ面で答える。
「人間に銭を払いたくなかったんだよ」
「なんだ、その言い草は? その、発想が俺にはわからねえ」

 豆腐小僧が再び喧嘩に鳴る前に仲裁に入る。
「まあまあ、お二人さん。ここで、三人が遭ったのも何かの縁さ。俺は豆腐小僧の豆吉。どうだい河童さん、俺から豆腐を買わねえか。半丁で四文。俺の豆腐を買えば、揉め事は万事すっぱり解決さ」

 豆吉と虎之助の眼光を河童が受ける。
 河童は渋々のていで、豆吉に四文を払って味噌つきの豆腐を買う。
 豆吉がそこから四文を虎之助に渡す。
「これで、酒を一杯、売ってくれ」
「はいよ」と豆吉に酒の入った升を差し出す。

「うーん、美味(うめ)え」と豆吉は美味そうに酒を飲む。
 河童は豆吉が美味そうに酒を飲んでいるのを見る。河童は豆腐片手に、ちらちらと虎之助を見る。
「なんだ、河童も飲むかい。俺は小さいことは気にしねえ。銭があるなら売ってやるよ」

「酒と豆腐だけってのも味気ねえ。なら、蕎麦も喰うよ」
 河童は二十文を払って、蕎麦と酒を買う。河童は蕎麦と豆腐を肴に一杯やり始めた。
「なるほど、蕎麦はまあまあだが、酒と豆腐は美味えな。どっちも水がいいんだな」

 豆吉がそれとなく尋ねる。
「虎之助さん、あんた妖怪じゃねえが、ただの人間ってこともねえだろう。高野山か熊野三山で修行でも積んだかい」
「いやあ、俺の生まれは御府内の回向院だよ。ただ、普通の人間とは、ちょいと違う。俺は回向院にある卵から生まれたんでさあ」

 豆吉が興味を示した顔で感心する。
「卵から生まれた人間けえ。そんな奴が、いるんだね。世の中は広いね。どうりで、妖怪も怖れないわけだ」

 河童は四文を払って、酒をもう一杯、飲む。
「ごちそうさん」と河童は顔を赤くして去っていった。
 豆吉は真面目な顔で忠告する。
「妖怪を相手にするんでも、ここは場所がいけねえ。客なんて、ほとんど来ねえだろう」
「客は豆吉さんと、さっきの河童だけだったな」

 豆吉は機嫌のよい顔で申し出る。
「もっと南に行くか、北に行かないと、お客はねえよ。どうだい、よかったら、そこそこ筋のよい客が来そうな場所を教えようか。おっと、ただし、お客は妖怪だ」
「いいのかい、豆吉さん。初めて遭った俺に、そんなよい場所を教えて」

 豆吉は愛想よく提案する。
「虎之助さんは豆腐を売るわけじゃねえ。だったら、問題ねえよ。それに、豆腐屋の近くに蕎麦屋があったほうがお互いに儲かるってもんさ」
「さっきの河童のように、合わせ買いをするかもしれねえな。よし、一緒に立ってみよう」

 虎之助は豆吉に連れられて、三町(三百二十七m)ほど南にある堀端に移動した。
 堀端に移動すると、どこかともなく寒い風が吹いてきて、妖気にも似た靄が漂ってくる。
 すると、それまでまるっきり姿を見せなかった狐、狢、狸、猫がなどの二足歩行する動物妖怪たちが姿を現す。だが、妖怪は二人を怪訝に遠巻き見るだけで寄って来ない。

 豆吉がにやりと笑って虎之助に声を掛ける。
「どうでえ、人間は来ねえが、妖怪は出てきただろう。ちょっとは怖くなってきたかい」
「馬鹿を言っちゃいけねえよ。銭ある妖怪なら客だ。客を怖れちゃ蕎麦は売れねえ。銭がねえなら、明日には俺が水絶ちした河童のように干上がっちまう」

「人間ってのは、銭がねえと首すら回らなくなる生き物だからな」
 二人が笑い合うと、妖怪たちが、これは無害な屋台だとでも思ったのか寄ってくる。
 豆吉が利発な顔で教えてくれた。
「妖怪には人間嫌いな奴が多いから、虎之助さんが商売するなら、ここら辺がいいぜ。ここいらの辺の妖怪は筋がいいから、銭も、きちんと払う」

 蕎麦と豆腐を併せて売っていると、妖怪たちは蕎麦と豆腐を肴に一杯やる。
 豆腐屋と蕎麦屋の組み合わせがよかったのか、みるみる豆吉の豆腐は売れた。
 豆腐を売り切った豆吉が満足そうな顔で語る。
「おっと、そろそろ夜四ツ刻(約二十二時)だ。俺たち妖怪ならこれから仕事時だが。人間たちは木戸を閉めちまう。虎之助さんは帰ったほうがいいな」

「そうか、もう、そんな刻限か。なら、俺も長屋に帰るわ。ありがとうな、豆吉さん」
豆吉はカランコロンと下駄を鳴らして帰っていった。
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