第十五話 年寄りの冷水(ひやみず)

文字数 2,404文字

 時は進み、四月十五日(一七一七年五月二十五日)。江戸も日増しに暑くなってきていた。
 虎之助は相変わらず、地下御殿の妖怪相手に鮨を売って稼いでいた。だが、暑くなるにしたがって、鮨の売上は、ゆるやかに落ちていった。

 地下御殿で豆腐小僧の豆吉に遭った時に世間話をする。
「段々と鮨の売れ行きが落ちてきて困ったぜ」
 豆吉が思案する顔で意見を述べる。
「妖怪も夏は食欲が落ちる。それに、酢で締めても、魚は悪くなりやすいからねえ」

「その点、豆腐は年中商売ができて、いいな」
 豆吉の表情は渋かった。
「そうでもねえよ。大豆は弁財入道様の畑で穫れているものを使っていたんだ。だが、弁財入道様がより金になる作物に転作しちまった。おかげで、最近はよい豆が手に入らなくなった」

「そうか、お互い商売はてえへんだな」
 夜働くので、虎之助は昼に寝ている。
 通りからは水売りの掛け声が聞こえてくる。
「水、水、ひゃっけえ、ひゃっけえ」と売り声がする。
(冷てえなら一杯ほしいが、たかが水に金を出すのもなあ)

 虎之助が目を覚ますと、腰高障子に人の影が映る。
「虎之助や、虎之助はいるけえ」とご隠居の声がした。
 腰高障子を開けると、御隠居が立っていた。
 御隠居が明るい顔で手土産を差し出す。
「付き合いでハゼの干物を買ってね。店子に配って歩いているんだが、いるけえ?」

「ありがたく、ちょうだいしやす。それにしても、暑くなりやしたねえ。水売りの声が、よく聞こえらあ」
 御隠居が通りを眺めて穏やかな顔で告げる。
「まだ、夏はこれからだよ。水売りは江戸の名物でもあるけどね」
「へえ、そうなんですか。たかが、水がねえ。売れるんですかね」

 御隠居が笑って教えてくれた。
「あれは水だけ売っているわけじゃないよ。砂糖と白玉が入った水を売っているのさ」
「それはまた、美味しそうですね」

 御隠居の表情が曇った。
「ただね、最近は水売りの水を飲むとひどい下痢になって死ぬなんて、噂が立って商売が難しいそうだよ」
(おっと、こっちも簡単には参入できねえ商売か)
「水を飲むと下痢にねえ」
「そう、体の弱い子供や老人がとくに危ないとかで『年寄りの冷水』なんて言葉ができちまうくらいにさ」

「なら、甘酒を飲めばいいでしょう。甘酒売りの声もよく聞きますよ」
 御隠居がちょっとばかし寂しげに微笑む。
「若い虎之助にはわからないだろうね。それでも、昔から飲んでいれば、懐かしくて飲みたくなるものさ」

「そんなものですかね」
 御隠居が冴えない顔で告げる。
「水売りが原因かどうかは知らんが、江戸では夏に体を壊して亡くなる人間が多いのも事実だよ。特に水あたりは馬鹿にならないよ」
(これは、もしかして、大月彦に教えてもらった薬を作って御府内で売れば、馬鹿売れするかもしれねえな)

「御隠居の知り合いに薬屋はありやせんか」
 御隠居がほがらかな顔で訊く。
「私は、これでも薬屋の隠居だよ。薬問屋の尾張屋ならよく知っている。どうしたんだい急に?」

「水あたりが流行るなら、こっちはよく効く薬を売ろうかと思いやしてね」
 御隠居は苦い顔をした。
「素人が作った薬なんて効果がねえよ」

「薬の作り方は神様に教えてもらったんでさあ」
 御隠居が興味を示した顔で勧める。
「そうかい、じゃあ、尾張屋に行ってみるかい」

 尾張屋は日本橋本町にあり、間口が三間(約五m)の二階建ての店だった。
 土間から店に顔を出す。元はご隠居の店だったこともあり、すぐに番頭が出てくる。
 尾張屋の番頭は身長が五尺三寸(約百六十五㎝)で四十くらいの男だった。若草色の着物を着ていて、小さな銀杏髷を結った面長の男だった。

 番頭が御隠居に丁寧に頭を下げる。
「これは、大旦那様。今日は旦那様に御用ですか」
「荘左衛門や。今日はお客を連れてきた。薬のことはよくわからない男だが、よくしてやっておくれ」

 荘左衛門は、にこにこ顔で快諾する。
「それはもう、大旦那様がお連れになったお客様であれば、丁寧な応対を心懸けさせてもらいます」
「あっしは虎之助だ。下痢止めを作って売ろうと考えている。この薬草は揃うけえ」

 荘左衛門は虎助から渡された紙を見て頷く。
「変わった材料が二つありますが、残り五つはうちでも揃います」
「なんだい、全部は揃わねえのけえ」

 荘左衛門は自信に満ちた顔で請合う。
「大丈夫です。揃わない二つについても問屋仲間を当れば揃うでしょう」
「へえ、流石は御府内だね。なんでも揃うねえ」

 ここで荘左衛門の表情がちょいとばかし曇る。
「ただ、これらの薬草を使用するとなると、薬草代だけで二両は見ていただかないといけません」
 あまりの高さに虎之助が驚いた。
(そんなにするのけえ、だとすると、こっちもあまり売れそうにねえぞ)
「二両は高過ぎらあ」

「薬草は効能がしっかりしたものほど高く付きます」
 虎之助は簡単に計算する。
「でも、そうすると、薬の最終的な値段として一朱は貰わねえと合わねえぞ。とても、貧乏人が手軽に手を出せる下痢止めにはならねえや」

 荘左衛門は控えめな態度で意見する。
「薬が高く付くのは、止むを得ませんねえ」
 御隠居が得意顔で口を出す。
「そろそろ、(わし)の出番かな。息子の徳兵衛を呼んできてくれ」

「はい、少々お待ちください」
 荘左衛門は丁稚に旦那さんを呼びに行かせる。
「御隠居、どうするおつもりですか?」

 御隠居の顔は明るかった。
「なに、儂が値引き交渉をしてやるよ」
「これ以上に値段が下がるんですけえ」

 御隠居は微笑んで告げる。
「私は薬問屋の隠居だよ。薬の原価を知っているからねえ」
(裏の裏まで知っている御隠居なら、ぐんと材料を下げられるかもしれねえなあ)
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