第5話 捜索

文字数 2,412文字

 係員に頼んで連絡船の中を隈無く探して貰ったが、結局慈子は見つからなかった。下船した乗客から回収した切符の数に不足はなかったから慈子は既に船を下りていたんだよ。

 私は手帳に『新地のみえや』と書いた。『しんち』と言えば大阪の北新地のことだろうと感じていた。
 宇野駅から会社に電話をかけて上司に事情を説明したが、翌日に大事な商談を控えていた私には帰る以外に選択の余地はなかった。行方不明になったのが宇野駅だったので地元の警察に捜索願を出して、そのまま東京に戻った。

 警察には何度か連絡を取ったが、手がかりは掴めそうになかった。
 新婚旅行の旅先で新婦が行方不明になったという私を憐れんで上司も気遣ってくれたが、オリンピック開催までの職場はまるで戦場で、とても個人の事情を言い出せるような余裕はなかったんだ。当時は土曜日は休みじゃなかったし、日曜も殆ど仕事に出ていたからね。

 東京オリンピックが無事に終わり、会社から臨時のボーナスも出て、やっと私は十一月の平日に二日間休みを取ることができた。

 開通したばかりの新幹線で大阪に向かい、先ず初めに慈子の除籍謄本を取ることから始めた。
 亡くなった育ての親の富田英作は河内の、今で言う東大阪の工場経営者だということは聞いていた。しかし河内市役所で謄本を取るまで、富田の養女になる前の慈子の籍のことは知らなかった。富田の籍に移ったのは両親が亡くなった直後ではなく、昭和三十三年になっていた。慈子は十五歳になるその年まで北区曽根崎新地の中村美枝の養子になっていた。しかしその養母は慈子が戸籍を移す直前に亡くなっていた。その間に北の新地で慈子の身の上に何かが起きていたのだろう。夫の私にも知られたくない何かが。
 次に北区の区役所で除籍謄本を確認すると、慈子は終戦直後の昭和二十一年に中村美枝の養女になっていた。中村美枝は井上美佐、つまり慈子の母親の実の姉だから慈子の伯母に当たる。

 『新地のみえや』は北の新地で中村美枝が経営していた何かの店の名に違いない。役所の窓口で北新地の店前が分かるか尋ねてみたところ、戸籍担当の係員は面倒くさそうに言った。
「電話帳で調べてみたらどうですか?」
 役所にあった電話帳で早速調べてみた。しかし、その地域に『みえのや』は見つかったが、『みえや』の読みの店はなかった。店主が六年前に亡くなっていれば、店がなくなっていてもおかしくはない。戸籍係では埒があかない。地域の商店などを管轄する係に頼んで、昭和三十年当時の北新地の地図を見せてもらったところ、そこに『みえや』の名前を見つけた。私は地図を手帳に書き写した。

 北新地は歩いて行ける距離だったから、すぐにその場所に向かった。
 辺りは飲み屋街といった雰囲気で、まだ開店前の店が多かったが、かつて『みえや』があった場所は『憩』という名の喫茶店になっていた。店に入るとカウンターに腰掛けて先ずコーヒーを頼み、マスターらしい中年の男性に聞いてみた。
「ここは以前『みえや』って名前だったようですが、どんな店だったかご存じですか?」
 マスターはすぐに答えなかった。タバコに火を付けて深く煙を吐くと、私を睨み付けるように言った。
「あんたは新聞記者なん? 昔のことはよう分からん。三年前に高槻から越してきたんやから」
 少し険悪な雰囲気になったので私は早々に店を出た。
 時計は五時を回っていた。呼び込みの若い衆が道に立ち始め、辺りは急に活気を帯びてきた。喫茶店から五十メートルほど離れたところにたばこ屋があった。私はハイライトを一箱買って、店のおかみさんに尋ねてみた。
「この先の角に『みえや』ってあったらしいけど、どんな店やったん?」
 たぶんまだ六十代くらいだったと思うけど、もうお婆さんって感じだったな。そのおかみさんは知ってたよ。
「美枝さんはほんまに気の毒やったな」
「おばちゃん知ってるんや?」
「娘さんと二人でこまな料理屋をやっとった」
「その娘さん、慈子って名前やない?」
「なんや、知っとるんか。そうそう、おしげちゃんやった」
「美枝さんは気の毒って、いったい何があったん?」
「あんたは知らんのやな。強盗に襲われて美枝さんは殺されてんで。あの頃は空き巣が多かったけど、店に入った泥棒を捕まえようとして、持ってた刺身包丁で逆に刺されてもうたんやからね」
 慈子の伯母が殺されたと知って、私は絶句した。
「あれからおしげちゃんはどうなったん? 美枝さん亡くなって、身寄りが無いから河内の富田っておっちゃんが連れて行ったいう噂やったけど。あんた知ってるんやろ?」
 自分の妻だとはなぜか言い出せなかった。
「その富田さんも随分前に亡くなって、慈子さんはこないだまで東京で働いてたんやけど、急に行方が判らんようになってな。ほんでここに帰って来たんやないか思うて」
「この辺りでは聞かへんね。ここもだいぶ変わってしもたしね。おしげちゃん、こまい頃から別嬪さんやったからずいぶん綺麗になったんやろうけど……」
「ありがとう」と礼を言って立ち去ろうとしたら尋ねられた。
「あんたはここの人とはちゃうやろ?」
「今は東京ですけど、生まれは高松です」
「讃岐の人かぁ。あんたもおしげちゃんにぞっこんなんやね。顔見ればわかるわ」

 あんたも——と言われたことが心に引っかかった。慈子は「今までにボーイフレンドのような相手は一人もいなかった」と言ったが、それは嘘だったのだろうか?
 少なくとも、この北新地には私の知らない慈子がいた——それだけは確かだった。

 その晩は慈子の写真を持って朝方近くまで辺りの店を片っ端から訪ねて回った。しかし、誰も慈子を知る者はいなかった。早朝に梅田のホテルで仮眠を取って、翌日も北新地に足を運んだが、店はみんな閉まっていた。たばこ屋の前も通りかかったが、旦那さんらしい人が座っていたから声も掛けなかった。
 私は肩を落として帰りの新幹線に乗った。
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