第12話 誤解

文字数 1,773文字


 音楽が鳴り止むと妹は再び口を開いた。
「ゴディバのチョコレートのことだけど……」
「幽霊が持ってきた?」と僕は訊ねた。
「幽霊か……」と言いながら聡美は含み笑いを浮かべた。「お兄さんには言わないでって頼まれたんだけどね」
「頼まれたって? 誰に?」
「美奈さん」
「え?」
「この間の日曜日、病院に来てくれたの」
「美奈が?」
「初めてじゃないよ。実家に帰ってからも少なくても四回以上はお見舞いに来てくれてる」
「知らなかった」
「黙っててって言われてたからね。この間は病院で待ち合わせしたんだけど、うちが三十分以上遅れちゃって、美奈さん先に病室に行ってくれてたの。そしたらお父さん、朦朧としてて美奈さんのことをお母さんと思いこんで『慈子慈子』って」と言うと聡美は笑った。「悟さんのことを兄さんと間違えるし、優美のことを『美奈さん』って言ってたから、息子や孫の顔も忘れちゃったのかってかなり心配してたけど、さっきの話を聞く限り大丈夫そうね」
「そういうことだったのか。それじゃあのチョコレートは美奈が……」
「そう。美奈さん、お父さんにこんなことも言ってたよ。『辛いときはもっと隆史さんに頼ってね』って。それ聞いてお父さん嗚咽してたよ。それで兄さんに話す気になったのかな?」
「そうか、美奈だったのか」と僕は呟いた。
「チョコレートと言えば……」と聡美は僕に強い視線を向けた。「一年前にバレンタインデーのこと聞いたよ」
「美奈から?」
「そう。兄さんは融通が利かないしデリカシーが足りないよね。お母さんは『お兄ちゃんは病気だから』っていつも庇ってたけど」
「美奈が元彼にチョコレートを渡すような軽率なことをするから」と言いながら僕は言い訳を考えていた。
「美奈さん、元彼だけじゃなくクラス会に来た全員に同じチョコレートを持っていったの。知らなかったでしょ?」
「知らなかった……」
 僕は確かに誤解していた。
「スマホのメッセージ見て勝手に誤解してひどいこと言ったの、ちゃんと謝ったほうがいいよ」
 素直に自分の過ちを認めた方が良さそうだった。
「そうだな」
「親しき中にも礼儀ありって言うけど、夫婦間でも言って良いことと悪いことがあるでしょ? 昔の彼の方が僕よりセックスは上手かったかもしれないけど……ってなに? 最低! わたし、兄貴の代わりに謝ったわ」
 喉元にナイフを突きつけられたように僕は何も言えなくなった。
「美奈さん、泣きながら電話してきたのよ」
「四十二年前の意趣返しか……」と呟きながら、僕はテーブルの上の飲みかけのウーロン茶を見つめていた。
「意趣返し? お兄さんのためを思って言ってるのよ」
「それも四十二年前に僕が言った台詞だ」
 妹は軽く二回咳払いをした。
「それじゃ言わせて貰いますけど。悟さんのこと、今でも弟分みたいに思ってるでしょ?」
 なんだか話が飛び火している気がしたが、妹は攻撃の手を弛めてくれそうもなかった。
「弟分とは思ってないよ。年も同じだし」と僕は弁明した。誤解して美奈を傷つけてしまったように、親友の悟を傷つけたことは一度もないはずだ。
「確かに大学時代は兄さんの方が少し優秀だったかもしれないけど、今の彼は技術本部長として部下に慕われてるし、兄貴と違って家族にも優しいよ。部下に徹夜させるわけにはいかないって今でも朝帰りすることがあるけど、それでも朝のゴミ捨ては欠かしたことがないし、お休みの日は孫の面倒もみてる。あたしがやらせてるんじゃなくて彼が自分から進んでやってるの。兄さんは家のこと全部美奈さんにやらせてたでしょ? 一人になったら自分がどれだけ大変な思いをするか、兄貴のために別居してって頼んだのは、このわたし。今まで小さな諍いがあるたびに美奈さんが折れてたでしょ? 今度という今度は絶対に美奈さんから謝っちゃダメって言ったから」
「ひどいな」と僕は呟いた。
「ひどいのはどっち? 兄貴が謝ったら美奈さんは家に帰るつもりだったのに、いつまでも自分の非を認めないからずるずると一年も経っちゃったんじゃない? このまま離婚になっても、あたし知らないからね」
 そこまで言うと妹はやっと僕への攻撃の手を弛めたが、落ち込んでいる僕を尻目に得意な曲を三曲続けて歌い切ると、最後にこう言い残して帰って行った。
「美奈さんに電話してね。兄さんが謝ってくるのをずっと待ってるから」

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