第13話 和解

文字数 2,183文字

 
 妹に散々やり込められてしまったが、腹は立たなかった。
 四十年以上一人で秘密を抱え続けてきた妹が頼もしく思えたし、それは妻の美奈に対しても同じだった。
 僕は自分は男尊女卑の古い考えの人間ではないとずっと思い込んでいた。しかし、妻をどれほど尊重してきただろう? 結婚して以来妻にどれほど愛情を注いできただろう? 美奈は結婚生活にどれほど幸せを感じていただろう?
 美奈には僕と結婚する前に三人の恋人がいた。そんな彼女の過去を知ったときに僕は結婚を躊躇(ためら)った。何度も何度も考え直した末に漸く全てを過去のことと割り切って美奈と一緒になった。それでも心の奥底で僕は妻の過去にずっと嫉妬していたのだ。
 もし美奈に母のような過去があって、僕がそれを知ってしまったら、きっと自分は裸足で逃げ出していたに違いない。
 自分はなんと器の小さい男だったのだろう——そう思えたときに、あらためて父の優しさと寛容さに僕は感服した。

 ほんの数時間前、母のことを恥ずかしく感じていた自分が情けなくなってきた。
 苦難に満ちた過去を背負いながら、それを微塵も感じさせなかった母の強さは、人として尊敬に値する。大学こそ出ていなかったが、母は定時制高校在学中に大検に合格し、専門学校で速記を学び、ラジオ講座で英語を独習して、たった一人で上京して就職先を見つけた。会社では通訳や翻訳を任されるほど英語にも堪能だったというが、普通の少女なら耐えられないほどの不幸や苦痛を乗り越え、社会人として独り立ちして周囲の信頼を得るまでにいったいどれほどの苦労や努力を重ねてきたのだろう。
 真実を目の当たりにして、ずっと心の支えにしてきた母のイメージが崩壊し、その思い出さえもが瓦解してしまったような強いショックを受けた。でも、ほんとうに崩れ去ったのは、自分の虚栄心が作り上げた母の虚像に過ぎなかったのだ。


 名古屋駅前のビジネスホテルにチェックインすると、ベッドに腰を下ろして浜松の実家にいる妻にスマートフォンからメッセージを送った。
『今までほんとうにすまなかった。僕は君に不寛容過ぎたと思う』
 すぐに妻から返信があった。
『急にどうしたの?』
 電話しようと思って画面に触れようとしたら、逆に美奈から着信があった。
「一年ぶりね。何かあったの?」
「実は今、名古屋なんだ」
「聡美さんのところ?」
「さっきまで一緒にいたけど、今はビジネスホテルにいる」
「バレンタインデーにひとりぼっちで急に人恋しくなった?」
「そんなんじゃないよ。ほんとに謝りたかったんだ」
「家にちゃんとチョコレート送ったのよ。でも名古屋にいるなら不在伝票になっちゃったね」
「ありがとう。そう言えば親父のところにもチョコレート持って行ってくれたんだね」
「お父さんの病院行ったのね?」
「親父、美奈のことを亡くなった母さんと間違えてたらしいね」
「すごく嬉しそうだったから否定しなかったけど」
「悪かったね。それと……今更変なこと言うけど、バレンタインのチョコレートってクラス全員に持っていったんだってね」
「え? なにそれ。ほんとに今更」と言うと妻は電話の向こうでため息をついた。「聡美さんから聞いたのね? 男の子だけじゃないよ。女子にも全員。担任の小川先生だけはちょっと豪華なのを奮発したけど」
「誤解して悪かった。それにあの時はひどいこと言ってごめん」
「その言葉、一年も待ってたのよ」
「許してくれるかな?」
「許さない」
「そうだよな」
「嘘よ」と言って美奈は笑った。「あの時も言ったけど、私が愛してるのはあなただけだから。でもほんとに傷ついたのよ。二十年以上連れ添った妻を信じてくれてないってすごく悲しかったし」
「ほんとに悪かった。家に帰ってくれたら、これからは僕がゴミ出しするから」
「なんで急にゴミ出しなの? 面白い人」
「今まで君に負担をかけてたから」
「ゴミ出しはいいから、温泉でも連れて行って」
「温泉なら静岡に沢山あるのに」
「あなたと行きたいの、ってそこまで言わせる?」
 僕はなんと応えていいのか分からなかった。
「明日は帰るの?」
「そうだね。東京に戻る途中で君のところに寄ろうと思ってる」
「迎えに来てくれるの? こっち来るのは大変だから浜松駅でいいよ」
「わかった。そのあとだけど、熱海か湯河原あたりで温泉に寄って行くのはどう?」
「明後日は仕事でしょ?」
「そうだね」
「日帰り温泉か。ほんとはゆっくり二三泊くらいしたいけど……いいわよ」
「じゃ、朝のうちにそっちに着けるように明日は早めに出発するよ」
「明日、浜松に着く時間がわかったら教えてね。ところで、今年なんの年か気づいてた?」
「銀婚式?」
「良かった。憶えてたのね」
「六月でちょうど二十五年だね」
「隆史さん、有給休暇沢山残ってるでしょ? 定年退職前にあなたの還暦のお祝いも兼ねて二泊三日くらいであらためて温泉行かない?」
「わかった。何処に行きたいか教えてくれる?」
「考えておくね」
「それじゃ、明日」
「うん。気をつけてね」
「美奈も」
 電話の向こうで妻は言った。
「それと、遅くなったけどハッピー・バレンタイン!」
 以前の僕なら、安易にハッピーなんて言うもんじゃないと聖バレンタインの悲劇について蘊蓄を垂れたかもしれない。でももう僕はそんな愚かなことはしないつもりだ。
「ありがとう。君にもハッピー・バレンタイン!」

     <了>
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