第9話 芳香

文字数 1,420文字

 父の話を聞き終わったとき、目眩と同時に僕は吐き気にも似た不快感を感じた。
 これは父が創作した物語に違いない——そう自分に言い聞かせた。若い頃に映画のシナリオを書いて応募したこともある父だから、ストーリーを創作することは得意なはずだ。
 でも、今更なんのためにそんな話を僕に聞かせたんだろう?

「良く出来た話だね。それは父さんが書いたシナリオ?」と訊ねた。
「シナリオか……」と言って父は笑った。「信じられないのも無理ないだろうな。あのお母さんからは想像も出来ない話だろうから」
「もし父さんの作り話だったら、お母さんへのひどい侮辱だよ」
「それじゃ、もしほんとの話だったらどうなんだ?」
「それは……」その先の言葉が出なかった。
「間違いなく言えることは、少女時代の慈子には逃げる以外に選択肢がなかったってことだ。慈子にはなんの罪もない。あるとすれば、事故で伯母が亡くなったときに物盗りを偽装して富田さんを逃がしたことくらいだな。でもそれも結局罪には問われなかった」
 父は少し咳き込んで、冷めたお茶を口にした。お茶を煎れ直さなきゃ、煎れ直した方がいい、そう思いながら、まるで身体が硬直したように僕には何も出来なかった。
「それでも、慈子の努力は評価されるべきだと思うよ。あれほど過酷な少女時代を送ったら自暴自棄になってもおかしくない。それなのに、慈子は働きながら定時制の高校に通い、富田さんが亡くなって天涯孤独になってからも、早稲田速記を勉強して秘書になるまでの知識を身に付けた。隆史の嫁さんも社長秘書をしていたから、大学に行けなかった慈子にとってそれがどれくらい大変なことだったかは想像つくだろう?」
 想像する以前に、僕はそんな母を思い描きたくなかった。しかし、父は追い打ちをかけるように僕に訊ねた。
「慈子の……お母さんの臭いを覚えてるか?」
 途端に幼い頃の記憶が蘇った。母はいつも石けんの香りを漂わせていた。そして僕はその甘い芳香が大好きだった。
「石けんの香り?」
「そうだな。その理由を知ってるか? 慈子は風呂に入ると必要以上に繰り返し繰り返し石けんで身体を洗っていたんだ。『私の身体は汚れているから』って言いながら……」

 父と子の会話は、巡回の看護師によって終止符を打たれた。
「森さん、今日は息子さんとお話し出来て良かったわね。ちょっとお熱計りましょうか」
 検温の間、僕は祈るようにじっと待っていた。
「三十七度八分。ちょっと高いですね。このお薬を飲んで、少し休みましょうか」
 看護師は僕に目で合図をした。壁の時計を見ると面会の時間をだいぶ過ぎている。薬を飲み終えると、父はハート型のチョコレートケースを開けた。
「私は味がようわからんから好きなだけ持っていったらいい。このチョコレート……お前は信じないかもしれないが、実は慈子が持ってきてくれたんだよ」と言うと、父はうっすらと目に涙を浮かべた。「そのときあいつはこんなことを言ってた。『辛いときや苦しいときはもっと隆史を頼って』ってね。だからまた何かあったら力になってくれ」
 その話はさっきも聞いた——と言いかけて僕は口を噤んだ。
 父はベッドの上から右手を差し出した。僕が手を握ると想像よりずっと強い力で握り返された。
「今日は来てくれてありがとう」
「近いうちにまた来るよ。これ、遠慮なく貰っていくね」
 僕がチョコレートを幾つか手に取って蓋を閉めると、父は満足そうに笑みを浮かべながら静かに目を閉じた。
ワンクリックで応援できます。
(ログインが必要です)

登場人物紹介

登場人物はありません

ビューワー設定

文字サイズ
  • 特大
背景色
  • 生成り
  • 水色
フォント
  • 明朝
  • ゴシック
組み方向
  • 横組み
  • 縦組み