第1話 慈子

文字数 1,413文字

 あの憂鬱なバレンタインデーがまた巡ってきた。
 ちょうど一年前、些細なことで言い争いになった末に妻は浜松の実家に帰ってしまった。それ以来、彼女はずっと戻って来ない。今年の六月で結婚してちょうど四半世紀だから、もしこの危機を乗り越えることができれば四か月後に僕たちは銀婚式を迎える。元気にしているのか気になって電話しようかとも思ったが、まるでこちらから催促しているように思われたら不本意だ。

 妻の美奈は亡き母に面影が似ていた。
 父から聞かされた母との出会いとまるで同じように、取引先で社長秘書をしていた美奈と出会ったときに僕は運命を感じた。何度か顔を合わせるうちに向こうも好感を持ってくれたようで、出張のお土産を渡したら翌週のバレンタインデーに手作りのチョコレートを手渡してくれた。

 僕には長い間恋人と呼べるような相手がいなかった。
 大学時代にゼミの後輩と付き合ったとき、「母親の話ばかりするマザコン男」と陰で悪口を言っているのを知ってひどく落ち込んだ。結婚するまでに男女の関係になったのはその後輩だけだったが、セックス目的で女性に近づいたりすることはなかったし、ましてや風俗の世話になることなどまっぴらだった。
 と言っても全く女性にもてなかった訳じゃない。バレンタインデーにチョコレートや花を贈られたこともある。でも僕は付き合い始めるとすぐに敢えて母の話をした。大概の女性はそれで僕に愛想を尽かして去っていく。皆が僕のことをマザコンと噂するのは判っていた。
 ただ、美奈だけは違っていた。初めて母の話をした午後、長い話を聞き終えた彼女はこう言ったのだ。
「ほんとうに素敵な人だったんですね。私も会ってみたかった」

 美奈はとても社交的で性別を問わず友達も多かった。母とは対照的なその性格に僕は戸惑いを隠せなかった。五年の交際期間を、長いとか、長すぎると言う人もいるかもしれない。それでも生涯のパートナーとして決意を固めるのに、僕にはそれだけの時間が必要だった。
 美奈がプロポーズに応えてくれた日はちょうど母の命日だったから、僕たちは二人で母の墓前に報告した。

 品があって慎ましく、聡明で美しく、人の悪口や噂話が嫌いで、どんな人の言葉にも真剣に耳を傾ける。そして優しくゆっくりと話し始め、けっして人の話を遮らない。
 慈しみの子と書いて慈子(しげこ)。その名が示すように慈悲深く聖母のような母は、僕にとってかけがえのない理想の女性だった。

 そんな母が亡くなったのは僕が十八の時だった。
 忘れもしない大学入試の合格発表の日。自宅に電話した僕は、誰も出ないことに違和感を感じた。少なくとも母は僕の連絡を待ってくれている筈だった。嫌な予感が脳裏を掠めた。急いで家に帰った僕はテーブルの上に置かれた妹のメモで事故のことを知った。
 駆けつけた病院に母の姿はなく、急いで向かった警察の遺体安置所では、父に「見ない方がいい」と制止された。

「お赤飯がないから買ってくるねってスーパーに買い物に行ったまま帰ってこなかった」と妹の聡美は言った。「救急車のサイレンの音がずっと耳鳴りのように頭の中から消えないの。私が買いに行けば良かった」
 泣き崩れた聡美の背中を摩りながら、僕は僕なりに励ましたつもりだった。
「聡美が悪いんじゃない。僕のせいだ」

 突然左折してきた大型トラックに自転車もろとも母は押し潰されたのだ。通夜の夜、斎場で再会した母の遺体は顔が半分隠されていた。
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