第11話 秘密

文字数 2,091文字

 妹の聡美は先週末、父の見舞いに来ていた筈だ。もしかしたら何か知っているかもしれない。三本目のタバコを途中で消すと、僕は煙で満たされた部屋を後にして名古屋の妹に電話をかけた。
「さっき、親父のところに行ってきた」
「お疲れさま」
「聡美は先週行ってくれたんだよね?」
「うん」
「そのとき、何かおかしな様子はなかったか?」
「おかしな様子?」
「病室で親父が変なことを言うんだよ」
「変なこと?」
「慈子が病院に来たって」
「あぁその話……」
「聡美も聞いてたんだね? それだけならいいんだけど、お母さんのことで奇妙な話を聞かされたんだ」
「奇妙な話?」
「大阪の、今で言う北新地に住んでたって」
「お父さん、話したのね?」
「聡美は新地のみえやって知ってる?」
「ちょっと待って……」と妹は話を遮った。それ以上は電話では話せないと言う。すぐに新宿を出れば、夕方には妹の住む名古屋に着く筈だ。僕は山手線で品川駅に向かい、新幹線に飛び乗った。

 待ち合わせの場所は駅前のカラオケボックスだった。
「ごめんね。遠いところここまで来て貰っちゃって」
 聡美は僕を労ってくれたが、その顔にいつもの笑みは無かった。
「それにしてもなんでカラオケ?」
「人に聴かれると困る話でもここならゆっくり話せるでしょ?」
 僕は子供の頃から人の表情や雰囲気から何かを感じ取ることが苦手だったが、そんな僕でもカラオケボクスというその場に似つかわしくない重苦しいものを感じ取っていた。

 部屋に案内されてそれぞれのドリンクをオーダーすると、聡美はバッグから一枚のCDを取り出してCDドライブに挿入した。
「お母さんが一番好きだった曲。憶えてるよね」
 歌劇『クセルクセス』のアリア「オンブラ・マイ・フ」。通称「ヘンデルのラルゴ」のオーケストラ演奏がカラオケボックスの中を満たした。僕は深く息を整えながら、瞼を閉じてじっと在りし日の母の姿を思い浮かべた。

 わずか六分ほどの演奏が終わると聡美は僕に尋ねた。
「お父さんからどんな話を聞いたの?」
 病院での出来事を一つ一つ思い出しながら、僕は父から聞いた一部始終を妹に伝えた。
「なにそれ?」とか「お父さん大丈夫かな?」という言葉が妹の口から発せられることを僕は期待していた。ところが、意に反して聡美はじっと俯いたままこう言った。
「お父さん、話しちゃったんだね」
 長い沈黙がカラオケボックスの室内を包み込んだ。

 どちらから口を開くべきか僕たちは互いに躊躇っていた。遠くから聞こえてくる隣の部屋の喧噪を打ち消すように先に言葉を発したのは妹のほうだった。
「あたしが高校に入った年、急に変わったの憶えてるよね? 夏休みに朝帰りしたとき、お兄ちゃんにメチャクチャ怒られたから」
 黙って頷くと、妹は話を続けた。
「あたしはお母さん本人から聞かされたの。十六の誕生日の次の日に」
 間もなく還暦を迎える自分でさえ耐えきれないほどの話を、妹は十六歳のときに聞かされたのだ。それも母自身の口から。中学の頃は優等生だった妹は、確かに高校に進学した途端に遊び歩くようになっていた。
「聡美がグレたのはそのせいだったのか」
「グレた……ね」と言うと妹は苦笑した。「あのときは両親が偽善者に思えたの」
「なにも知らなくてごめん」僕はあらためて頭を下げた。
「やめてよ、今さら。でもあのとき『少しはお母さんを見習ったらどうなんだ!』って説教されたのはキツかったな。『ママの何を知ってるのよ!』って言い返したけど、それ以上なにも言えなかったから。ママからは『このことは聡美の胸に留めて、絶対にお兄ちゃんには言わないで』って釘を刺されてたからね」と言うと聡美は涙を拭った。「ママはお兄ちゃん第一だったからね。ショックを与えて傷つけたくなかったんだろうし、それこそお兄ちゃんにはグレて欲しくなかったんだと思うよ。でも、私も二学期からはちゃんと学校に行くようになったでしょ? あれ、お兄ちゃんに説教されたからじゃないからね」
 そう言って笑う横顔は母に似ている。聡美は話を続けた。
「お母さんが長かった髪をバッサリ切ったことがあったでしょ? 夏休みが終わる間際だったけど、ママは私に向き合ってくれたの。それで私も少しは自分事として考えられるようになった。もし私が二歳で両親と死に別れて、他に身寄りが無い環境で育ててくれた身内から十二歳の時に売春を強要されたら、あたし拒否出来るのかな? って。戦争で親を失った子供がいったいどうやって生き延びたんだろうって考えてみた。あの時代には他にもそんな人がいたのかもしれないし。それでやっとママには他に選択肢がなかったんだって理解出来た。だってお母さんは何も悪くないでしょ?」
「聡美は強いな」と僕は呟くように言った。長年、自分は妹を守っているつもりだったが、実際に護ってもらっていたのは僕の方かもしれない。
「強いのはお母さんだよ。それを受け容れたお父さんもね」と言うと聡美はCDのプレイボタンを押し、再び「ヘンデルのラルゴ」の緩やかなメロディーが部屋を満たした。
「お母さんはいつもこの曲を聴いて傷ついた心を癒やしていたんだと思う」

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