第2話 病室

文字数 1,318文字

 バレンタインデーのその日、僕はブランチのつもりで前夜のカレーの残りを平らげてから、私鉄と地下鉄を乗り継いで父の病院に向かった。僕が着く頃にはちょうど昼食も終わっているはずだ。

 病室では美津子さんが窓際に花を生けていた。
 ベッドサイドにはゴディバのハート型のパッケージが置かれている。美津子さんが持ってきたのか、それとも妹のお土産だろうか?
 父の奥さんは自分の仕事を終えると、さっさと帰り支度を始めた。
「隆史さん、私用事があるからこれで失礼するわ」と言うとバッグから小さなチョコレートを取り出して僕に手渡した。「あとはお願いね。親子水入らずで」
「ありがとうございます」と僕が言い終わらないうちに美津子さんは病室を出て行った。その後ろ姿は、末期がんの夫を見舞いに来たとは思えないほどウキウキして見えた。
「これからボーイフレンドの店に行くんだろ」と父は苦笑した。
「ボーイフレンド?」
「南青山の……あぁ名前が思い出せない。なんとかいうフレンチレストランでソムリエをしてるらしい」
 僕はため息をついた。
「父さんはそれでいいの?」
「ヤキモチ妬いたところでどうせあと数か月の命だしな」
 僕は父の言葉を否定しなかったが、ただ無性に悲しかった。
「母さんとはえらい違いだね」
 今度は父がため息をついた。
「今日は少しゆっくりできるのか?」
 妻との別居を病気の父にはずっと黙っていた。
「美奈は実家だから大丈夫だよ」
「バレンタインデーなのに実家か。喧嘩でもしたのか?」
「いや」僕は嘘をついた。「お父さんの具合があまり良くないらしくて」
 美奈の父親は前立腺がんだったが、手術後に抗がん剤治療を受けた後、再発の可能性は殆どなくなって今は仕事に復帰している。
「そうか。そっちのお父さんも癌だったな。まぁ、私の方が先にくたばりそうだが」
「縁起でもないこと言わないでよ」と僕は言ったが、緩和ケア病棟にいる末期の膵臓がんの父とこうして会話出来る時間はそう長くない。「でも思っていたより元気そうで良かったよ」

 先週末は妹夫婦が娘と孫を連れて父を見舞っていた。
 聡美からは「お父さんは麻酔で朦朧としてて聡司さん——妹の夫で僕の親友の山中聡司——のことをずっと兄さんだと思い込んでいた」と聞いていたから、父がこうしてちゃんと会話出来るのはちょっと意外だった。

「長男のお前にだけ話しておきたいことがあるんだ」と父は言った。「このことは墓場まで持っていこうと思っていたけどね。私が死んだら誰も真実を知る者はいなくなってしまうから」
「もしかして、愛人とか隠し子とかそんな話?」と言って僕は苦笑したが、父は真顔だった。
「いや。お前のお母さん、慈子のことだ」
「母さんのこと?」
「お母さんは……慈子は、自分の少女時代のことを隆史に話したことがあるか?」
 いくら思い返してみても、僕の記憶の中に母の少女時代のエピソードはひとつも無い。僕は静かにかぶりを振った。
「私の話を聞いたら、隆史は驚くだろう。信じてくれないかもしれない。でも、慈子が体験した歴史を忘れてしまったり、風化させてはいけないと最近思うようになったんだ」
「いったいどういうこと?」と尋ねた僕の脳裏にはすでに嫌な予感が渦巻いてた。

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