第3話 幽霊

文字数 1,873文字

「実はこの間、慈子がここに来たんだ。とうとうお迎えが来たのかと思ったよ」
 やはり聡美の言うように父の意識は混濁しているのかもしれない。僕は黙って耳を傾けた。
「そのとき慈子は『お父さん、辛いときや苦しいときはもっと隆史さんに頼ってね』って言ったんだ」
 訝しげな僕の表情を父は感じ取ったようだ。
「嘘だと思うだろ? でもそこにあるハート型のチョコレートは慈子が持ってきてくれたんだよ」
「このゴディバ?」と指さしたら父は頷いた。
「最近の幽霊は随分洒落たものを持ってくるんだね」
「あれは幽霊だったのかな? 記憶が朧で私にもわからないが、でも慈子の気持ちだけは分かった。あいつはお前にほんとうの自分のことを知って欲しいんだ」
 もしかすると、父がこれから語ることはあまり耳にしたくない類いの話かもしれない。
「その話の前にお茶でもどう?」と言って僕は立ち上がった。
 父のカップを備え付けの洗面で洗い、見舞客用のカップをサイドテーブルに並べてティーバッグを入れ、ポットからお湯を注いだ。

 父はお茶を一口啜ると母との出会いの話を始めた。
「慈子との出会いのことは何度か話したことがあったな」
「うん、何度もね」
「慈子は神田の商事会社で秘書をしていた」
「それは知ってる」
「出会ったのは東京オリンピックの年だ」
「1964年だね」
「私の会社はちょうどオリンピックで使う撮影機材を取り扱っていたが、現場でその機材を使うにはオランダのメーカーの部品が必要だったんだ。ちょうどその部品メーカーの代理店が慈子の会社だったんだよ。年末に初めて訪問して、年明けてから何度も足を運ぶうちに、私はいつも書類を用意してくれる女性が気になり始めた」
「それが母さんだろ」
「物静かで控えめだが、とても聡明で気が利くんだ。私は感心しながら『あの事務員さんは優秀ですね』と言ったら、担当の八代部長が『彼女はうちの秘書ですよ。速記が得意で最近はタイプも熟すようになったから助かってます』と言うんだ。それで小声で『なかなかの美人でしょう?』と耳打ちするから、私は大きく頷いた。そしたらその部長は彼女に聞こえるように『富田君は花婿募集中なんだよね?』と声を掛けたんだ」
 その辺りの話はしっかりしている。今までに何度も聞いた話だが辻褄は合っていた。
「そのあと帰り際に慈子の方から話しかけてきた。『先ほどは失礼しました。部長がおかしなことを申しましたがどうかお気になさらずに』ってね。だから僕は『花婿募集中というのは冗談ですか?』と聞き返したら、否定もせずにしばらく俯いていた。それで僕はこう言った。『ここにも花嫁募集中の独身男が一人、あなたの前に立ってますけれど』って。そしたら慈子は顔を真っ赤にしてるんだ。私はまずいことを言ったと思って話題を逸らせた。『富田さんは関西出身でしょう? 品が良いから京都、いや神戸あたり。お父さんはお医者さんかな?』ってね」
 その話は初めて聞いた。
「確か神戸で小児科医をしていたんだよね。父さんはそれを知ってたの?」
「いや。全くの出任せだった。関西訛りには気づいていたけど、賢そうな子だったからきっと親は医者か学者に違いないと想像しただけだ。でもそれが大当たりだったんだよ」
 父は照れくさそうに笑った。
「慈子は『どうして判るんですか?』って目を潤ませていた。『父は三宮で小児科の医者をしていました。でも私が二歳の時に空襲で……』って。そこに八代部長が通りかかった。『若い男女で早速逢い引きかね? でも泣かしちゃまずいですな』と言われてまた応接室に通されたんだ」
「その部長が仲人さん?」
「そういうことだ」
 僕は内心ほっとしていた。こんな話なら恐れることもなかった。
「その後はトントン拍子に進んでね。慈子には身寄りが無かったから、八代さんが親代わりになっていた。あとで判ったことだが、社長の姪御さんが短大で秘書の勉強をしてその年に入社することが決まっていた。だから二人が職場でぶつからないように八代さんは慈子の花婿を探していたんだ」

 父はハート型のケースを開くと、その中にあるチョコレートを指さした。
「どれでも好きなのを食べたらいい。私はもう味が分からないんだ」
「幽霊がくれたチョコレートなら僕も味は分からないかもしれないな」
 僕が返したブラックジョークに父は無反応だった。
「ありがとう。いただきます」と言って僕は一つ口に運んだ。「美味い。さすがゴディバだね」
 父も一つ口に入れたが、神妙な顔をしながら噛み砕くとすぐにお茶で流し込んだ。

 そして父はしっかりした口調で一気に語り始めた。
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