第8話 幸福

文字数 1,189文字

 慈子は大きな溜息をつくとタバコに火を付けた。
「結婚するまであんたにも言えなかった話や」
 慈子はハンドバッグから書類を取り出した。離婚届の用紙で、妻の欄には全て書き込まれ、捺印もされていた。それをテーブルの上に拡げてこう言ったんだ。
「東京に帰ったら、これを出したらええ。うちはあんたをこれ以上不幸にしたくないんよ」
 慈子の話は私の想像を遥かに超えていたが、全て過去のことだ。私は覚悟した。
「この一年、僕がどれほど不幸だったかわかるか? 僕にとって、君がいない人生ほど不幸なものはないんだ。君を苦しめた辛い過去は全部捨てて、これから先のことを考えよう」
 慈子は目を潤ませながら「ありがとう」と言ってくれたよ。「嘘でも嬉しいわ」って。

 私は慈子に自首を勧めた。慈子も心に決めていたらしく、私たちは昼食も取らずに二人で警察に向かった。未決の事件だったから、慈子はすぐに取り調べを受けることになった。その夜、私は慈子の代わりに預かった辞表をキャバレーに届けたんだ。

 取り調べは何日かに及んだ。会社に事情を話して休みを延長して貰って、毎日慈子に面会に行った。会社には「妻があらぬ嫌疑をかけられて」と伝えたけどね。
 仲人の八代さんに慈子が見つかった報告をしたときに、「少女時代に亡くなった伯母のことで警察で事情聴取を受けている」と伝えたら、八代さんはすぐに大阪の弁護士を紹介してくれた。
 その弁護士さんは面会の時にも同行してくれて、「当事者は亡くなっているし、事件当時まだ十五歳の未成年だったから、もし裁判になっても情状酌量で大きな罪にはならないはずだ」と言ってくれた。
 慈子は仮釈放されたが、すぐに東京には返して貰えなかったから、富田さんの会社で女子寮の一室を借りて、検察からの連絡を待ったんだ。

 弁護士さんから不起訴の知らせを受けたときはやっと肩の荷が下りた気分だった。
 私はすぐに新幹線に飛び乗って迎えに行った。でも喜んでいたのは私だけで、慈子はあまり嬉しそうじゃなかったんだ。彼女は私に向かってこう言ったんだ。
「前科は付かなかったけれど、私の罪が消えたわけじゃない」って。
 だから私はこう返したよ。
「その罪は僕が半分引き受けるよ。夫婦は運命共同体だからね」
 そのとき慈子は初めて声に出して泣いた。いつまでも泣き続けた。
 きっと事件の時、いやその前に女としての幸せを奪われてから、ずっと耐え続けてきた悲しみが一気に押し寄せてきたんだろう。私はそんな慈子を抱きしめながら心の底から愛おしいと思った。

 実は、慈子は過去の因果で自分には子供は出来ないと諦めていたんだ。けれどちゃんと妊娠して、再会した一年後にお前が生まれた。私たち夫婦にとって幸福の絶頂だったな。
 母親になって、慈子はやっと過去を捨てる決意が出来たんじゃないかな? その日から、慈子はお前もよく知っている慈子になったんだよ。
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