第4話 失踪

文字数 1,898文字

 交際を始めたのは二月だったが、オリンピックの開催を目前に控えていたから、仕事が忙しくてデートらしいデートもなかなか出来なかった。婚約前に二人で逢ったのは、仕事を終えた後に映画を観に行った夜と、日曜日に顧客に招待されたクラシックのコンサートに行ったくらいだったかな。

 それでも、四月には私は結婚の意志を固めていた。もし慈子を逃したら一生後悔すると思ったんだ。銀座の和光で指輪を買って五月の連休の最初の日にプロポーズした。翌日、二人で八代さんのお宅に挨拶に行って結婚式の日取りも決めた。慈子は入社したばかりの新人に席を譲って六月いっぱいで退職することになった。寿退社という言葉はまだなかったかもしれないが、あの時代は結婚イコール退職だったからね。

 結婚式は七月二十六日の大安の日だった。
 私の両親が高松から上京してきて、明治神宮で式を挙げたんだ。ウェディングドレスを着たくないかって慈子に尋ねたら、「親のいない私にとっては式が挙げられるだけでも勿体ないです」って言ったんだ。だから写真は和装で文金高島田なんだよ。あの時、私の方から「君のウエディングドレス姿を見たい」って言えば良かったと随分後になって後悔したけどね。

 慈子には身寄りがなかったから披露宴は実家がある高松で、私の親族だけを招いて行うことになった。と言ってもオリンピック直前で仕事が忙しくて長い休みを取ることなど出来なかったから、式から一月近く経った八月下旬に新婚旅行を兼ねて四泊四日の旅に出た。三泊四日じゃない、四泊四日だ。
 新幹線が開通するのは十月だったから、私たちは金曜日の夕方に東京駅から夜行列車に乗り、列車を乗り継いで連絡線で四国に渡った。今ほどではないが、その年は酷暑と言われたほど暑かったし、まだ冷房が完備されていないところも沢山あったから、高松に着いたときは二人とも汗だくだった。
 私たちは実家で朝風呂を浴びて、午後から高松見物をした後、浴衣に着替えて徳島に向かった。台風が近づいていて天気もあまり良くなかったが、阿波踊りを見たいと言った慈子のリクエストに応えたんだ。
 阿波踊りのために特設された競演場はものすごい見物客でね。互いの手をしっかり握っていないと逸れそうなほどだった。8ミリカメラを持って行ったが、とても撮影する余裕などなかったな。とにかく熱気がすごかったよ。帰りもすごい混雑で電車になかなか乗れなくて、やっと乗れた列車は高松行きの最終だった。

 披露宴は日曜日だった。仏滅だったが、式は大安に済ませているから良いだろうってことで、その日に決めた。でも、なんで仏滅なんだってブツブツ言ってた親戚は何人かいたな(笑)。
 会場は地元ではちょっと知られた宴会場だったけど、集まったのは二十人、いや三十人くらいだったかな? 慈子は美人だし気も利くから、親戚のとくに伯父さんたちは皆んな上機嫌で、私も鼻が高かった。
 辰彦君が別嬪さんを嫁にしたって喜んでくれたのはいいんだけど、今考えるとみんな飲み過ぎだったね。披露宴が終わった後に屋島観光を予定していたけど、親戚がなかなか帰らなくてね。そう、みんな慈子に夢中だったんだ。
 屋島には母方の叔父が車で連れて行ってくれたけど、もう辺りはすっかり暗くなっていた。叔父もかなり飲んでたから今じゃ許されない酒気帯び運転だな。あの頃はみんな普通にやってたことだけどね。

 月曜日に帰る予定だったが、台風が来ていてね。もしかしたら連絡船が出港できないかもしれないと心配した両親が、もう一泊していくように強く勧めたんだ。火曜日から出社の予定だったからすぐに職場にお詫びの電話を入れた。結局、あの日の連絡船は出港したのかな?
 とにかく私たちは予定を一日遅らせて、火曜日の朝に菩提寺で先祖の墓前に報告して、昼前の宇高連絡船に乗った。神戸発の寝台特急には十分間に合う時間だったんだよ。でもその船に乗ったことが命運を分けたんだ。
 連絡船の中で、慈子のことを遠くからじっと見つめている女性がいた。ちょっと水商売風の派手な服装をした人だった。ふと気づいたら、付け睫毛で目の周りを真っ黒にしたその女性が目の前に立っていた。
「あんた新地のみえやにおったな? おしげちゃんや」確かにそう言った。「な? おしげちゃんやろ?」
 慈子は応えなかった。
「人違いじゃないですか?」と私が代わりに応えた。「妻は三宮の医者の娘ですよ」

 それから慈子の様子があきらかにおかしくなった。
「お化粧を直してきます」と席を立ったまま、連絡船が宇野に着くまで戻ってこなかった。荷物も何もかも全てをそこに残したまま慈子は姿を消したんだ。

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