第10話 瓦解

文字数 1,723文字

 父の言葉を信じることなど到底出来なかった。
 加齢による認知障害なのか、或いは癌細胞がもう脳にまで転移しているのかもしれない。熱のせいでまるで夢でも見るように妄想を膨らませたのだろう——そう考えて僕は湧き上がる自分の感情を落ち着かせた。

 地下鉄の座席に座ると、静かに瞼を閉じて子供の頃の思い出を手繰り寄せた。

 小学校に入学して間もない頃、理科や算数などの得意な教科以外に全く興味が持てなかった僕は、授業中じっと座っていることが出来ずにクラスの中で一人浮いた存在になっていた。
 夏休みに母に連れられて検査を受けた大学病院で、僕はある種の発達障害と診断され、二学期になっても学校に通うことが出来ずにいた。そんな僕の勉強を見てくれたのは他の誰でもない母だった。いつも隣に座る母の身体から漂う石けんの甘い香りが僕の心を落ち着かせてくれた。
「すごいね。この問題はどうやって解いたの?」
 算数や理科の問題で僕が簡単に答えを出すと、母は僕を褒めながら導き出したプロセスを聞いてくれた。苦手な科目のときは、僕が興味を持てるものに置き換えて母が独自の問題を作ってくれた。問題に答えるうちに、まるで興味が湧かなかった科目さえも少しずつ楽しくなっていった。そんな母のおかげで、登校を再開した二年生の時には遅れを取り戻すどころか、僕は全ての教科でトップクラスの成績を挙げられるようになっていた。

 自分が興味を持てる対象にしか集中出来ない僕の障害を、良き個性として、秀でた特性として伸ばしてくれたのは母の信念と根気に他ならない。
 授業参観の時は何度も振り向いて教室の後ろに立つ母の姿を眺めながら、僕はなんとも言えない優越感に浸った。賢く、優しく、美しく、誰よりも上品だった母は僕の自慢だったし、そんな母の期待に応えるために僕は努力を重ねた。
 それなのに……理不尽にも第一志望だった国立大の工学部に合格したその日に母は亡くなった。僕は赤飯もケーキも祝杯もいらなかった。ただ母の喜ぶ顔を見たかっただけだったのだ。
 母がいなくなってからも僕が努力を続けられたのは、瞼を閉じればいつも母の姿が、あの石鹸の香りとともに僕の心の中に生き続けていたからだ。幾度となく口癖のように聞かされた母の言葉が今も蘇る。
「大丈夫。あなたなら出来るから」
 その言葉にどれだけ僕は勇気づけられてきたことだろう。
 大学卒業後は老舗の光学機器メーカーに就職し、長年レンズの設計に携わってきた。実績もそれなりに積み重ねてきたし、世に出た機種の名前を挙げるだけでわかる人はわかってくれる。コツコツとまじめに働き、役職定年を過ぎた今もプロジェクトの主査として多くのエンジニアをまとめ上げ、社内でもそれなりに尊敬も受けている。
 そんな僕が、売春や殺人に関わっていた女の息子だというのか?

 新宿駅で地下鉄を下りると、僕は私鉄の改札を通らずに街に出た。行くあてもなく彷徨い歩き、再び駅前に戻った僕はコンビニで何年も前にやめたタバコを買って、喫煙マークのあるコーヒーショップに飛び込んだ。
 頼んだエスプレッソを受け取って奥の喫煙ルームに入ると、換気されている筈なのに中は白い煙で充満していた。椅子に座ると僕は小さなカップの中身を一気に胃に流し込んだ。マッチを擦ろうとしたが、指が震えてなかなか点かない。漸くタバコに火が点ったが、その日を消さないように急いで吸い込んだら激しく咽せた。周囲の人は訝しげにこちらを見ている。なるべく視線を合わさないように下を向いて、今度は静かに煙を吸い込んで、そしてゆっくりと吐き出した。

 母が少女時代に身体を売ってた?
 嘘の証言までして犯罪の片棒を担いでいた?
 絶対に有り得ない!
 そう否定したくても、父の話はあまりに良く出来ていた。そして最後に父が語った石けんの香りの理由……。

 目を瞑ると、一人泣きながら身体を洗う哀れな母の姿が脳裏に浮かび上がってきた。
 まるで聖母のように一点の汚れも無かった崇高な母のイメージが音を立てるように崩れ始め、心の中でずっと大切にしてきた母の思い出さえもが瓦解していく。
 震える手で吸いかけのタバコを灰皿に強く押しつけ、僕は嗚咽を押し殺しながら顔を覆った。

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