18.封印されし雪女
文字数 9,641文字
何かを塞ぐように置かれた巨大な氷の岩。粧子は、黒い氷柱で身体中を貫かれ、力尽きるように岩の前に倒れ込んだ。
彼女を5人の雪女が取り囲む。1人は明治時代の女学生の服を着ており、2人は、江戸の着物、また1人はそれよりも古臭いが高貴な着物。そして、お局とも言うべき最後の1人の老婆は、真っ白い幽霊がきているような着物を身にまとっていた。
老婆以外の5人は、倒れ込む粧子を蔑むように、薄汚れた笑みを浮かべる。老婆は一歩前に出て、真っ直ぐな粧子の表情を塗りつぶすように、圧のある目つきで見下した。
「わしらの存在する意味は、『生』に苦しむ人間に『生』の愚かさを説き、生き地獄から救いだすこと。それをことごとく否定するとは、愚かなことじゃ。」
「くだらない。私には、価値観の押し付けにしか聞こえないけど。」
反抗する粧子を、老婆以外の4人が怪訝な顔で見つめる。老婆も顔を
「お前は、雪女に生まれ変わったにも関わらず、『生』に固執しているできそこないじゃ。掟破りの異端者がどのような運命を辿るのかわかっているな?」
粧子は、後ろの岩を手で摩りながら、迫り来る圧力に屈しないように自分を保とうとする。しかし、待っている刑罰がどれほど恐ろしいことかも理解しているが故に、次の言葉が出てこない。
その隙を老婆が見過ごすはずもなく、微力ながら声を和らげ、最終警告を試みてくる。
「わしも1000年近くこの山にいるから、掟破りの代償がどれほど辛いものなのかも目の当たりにしてきた。洞窟に閉じ込めた雪女は、永遠と呼べる孤独を苦しみ、500年経つと洞窟の岩の一部に変わる。するとどうじゃ、2度と光を浴びることはないだろうな。」
粧子は歯をぐっと食いしばりながら、老婆の言葉を聞いていた。そんな彼女へ、老婆が問いかける。
「最後に一度だけ情けをかけてやる。どうじゃ粧子、考えを改めんか?誰しも間違えを犯すことはあるから、やり直しを誓うのであれば、今回ばかりは見逃すとしようか。」
老婆が威厳の中に哀れみを込め、説得を試みようと歩み寄る。だけども粧子の考えが変わることはない。
「やだ。逆に考えを改め直しなよ。」
老婆の顔色が曇り、他の4人の表情も悪意に満ちたキツいものへと変わった。江戸時代の着物を着た雪女の1人が、老婆を押し退けるように前へ出て、粧子の右手をグレーの氷柱を突き刺す。粧子が苦痛の顔を浮かべると、その雪女はニヤリと笑う。
「お婆様、こんな奴に情けをかける必要ないわ。早く閉じ込めちゃいましょう。」
粧子は左手で氷柱を抜こうとするも、その雪女に蹴り払われてしまう。それから畳み掛けるように、キツい言葉を浴びせられる。
「人間の味方をするとか、よくそんなゲスいことできるね。生きることがどれだけ惨めなことかよく知ってるくせに、生きてなければ悲しい思いしなくて済むことを分かってるくせに。」
感情をむき出しにするその雪女を、お婆様と呼ばれる老婆がピシリと嗜める。
「お扇、やめるのじゃ!粧子はもう抵抗できまい。私らがやるべきことは、粧子を封印することただそれだけ。無駄な行為は不要じゃぞ!」
お婆様に言われ、お扇と呼ばれる雪女は嫌味ったらしく、ぐりぐりと抉りながら氷柱を引き抜いた。
粧子が右手をさすっていると、背後のどでかい岩が轟音を立てながら少しずつ横へずれていく。そして、岩と壁の間に隙間を作り出した。
隙間の奥は真っ暗で、暗闇に目が慣れている雪女ですら、奥を見渡すことができない。風の音も、水の音も聞こえず、無の世界と言って間違いはないだろう。
あまりの恐怖に、強がりの粧子も戸惑いを見せる。
4人の雪女が嘲笑う中で、お婆様が粧子へ冷めた息を吹きかけた。突風のように強い吐息は、粧子を穴の中へと吹っ飛ばす。
「掟を破ったことを悔いて、一生彷徨い続けるがいい。永遠の孤独がお主を裁き続けるじゃろう。」
穴の中は、とてつもなく寒い。
室温とかそう言う問題ではなく、心に突き刺さるみたいな、孤独の寒さが伝わってくる。
雪女になってからも心だけは温かくありたい。そう思い続けてきた彼女を乱れ打ちするように、四方八方から寒さが押し寄せてきた。
怖い。自分の力ではどうすることもできない。
久しぶりに抱いた恐怖心。感情気薄な雪女にすら伝わる忌々しさは、とてつもなく重く、苦痛そのものだった。
「粧子。本当に良いんだね?」
お婆様は、一応雪女を取りまとめている長である。刑の実行の最終責任者でもあり、罪の重さを重々理解しているからこそ、最後までチャンスを与えてくれていた。
しかし粧子は、腹の底から湧き上がるSOSを堪える。穴へ入れられ、刑の恐ろしさがなんとなく分かるが、保身の為に自殺の手助けなどしたくなかった。
「私の気持ちが変わることなんてないし。」
お婆様は、気の強い粧子を残念そうに見つめ、決意を固めた上で刑を執行した。
岩が徐々に動き出し、粧子から外界の光を奪い取っていく。
粧子は思う。悔しいがこれが最後なのかもしれないと...
消えゆく光の中で、腹を抱えて指を差しながら悪口を言うグレーの雪女達と、哀れみの目で見届けてくるお婆様の顔が心に焼き付いていく。
嫌だ、閉じ込めないで。そのように訴えかけたかったけど、負けたくないという気持ちがそれを許さない。
そして、光が閉ざされた音が聞こえる。
粧子は、冷め切った暗黒世界に取り残され、地面に座り込み、何もない暗闇を見つめ続けていた。
◆
孤独の冷気が粧子の心を氷河期へと導いていく。暖かかった心が冷えかえり、これまで無理にでも奮い立たせていた気持ちの底にある、本当の悲しみと後悔が浮き彫りにされていく。
孤独ほど怖い物はこの世に存在しない。生前は、友達やバイト先の仲間に恵まれ、1人でいる時間が少なかった。
家に帰ったら家族もいて、部屋に入れば趣味が一緒にいてくれた。彼氏もいて、友人達からはリア充の代名詞だなんて呼ばれることもあった。
あの事故のせいで全てを失い、雪女になって、薄汚れた集団を逃げ出したあの時だ。
初めて独りぼっちになったことを実感した。
とても辛かった。
でも、そんな私を認めてくれた五右衛門や雪の精霊達のお陰で、独りぼっちを続けることなく済んだ。
彼らは人間じゃないけれど、元人間ということもあり、人間に近い感情を蘇らせることができる。
涙が出ない、温もりがない、生身ではなく雪。
それでも、人間味に近いものを共有することができていた。
しかし、この洞穴の中は真っ暗闇。
雪の精霊すら存在しない孤独の世界。
1人になればなるだけ、事故の生々しい記憶が蘇ってくる。頭に突破的な激痛がよぎり、幻臭とも呼ぶべき血の匂いまで漂いだした。お扇に氷柱を突き刺されて痛みが続く右手を擦りながら、私を助け出そうとしてくれた彼の温かみを思い出してみる。
必ず助けるって言ったじゃん...。
日那斗を思い浮かべながら、右手で涙の出ない目を拭った。
希望がかき消された闇の世界は、解決策を考える気も起こさせない。そう、思考すらも無に変わりつつあったのだ。
音も聞こえず、視界も一向に良くならない。薄ら見えれば現実味も湧くけど、目から5センチも離れた位置にない手の輪郭すら、全くもって見えない。
それに洞窟なのだから、カビ臭かったりしてもおかしくないのだが、それすらも感じることができない。
この洞窟は、雪女の手によって作られた裏切り者を封印する洞窟。いや、自然の牢獄と表現しておこう。
味わったことのない深い闇に戸惑っていると、いつか五右衛門から聞いた話を思い出す。
洞窟には術がかけられていて、雪女の持つ全ての力が無力化される仕組みになっているらしい。それに孤独の重圧で、精神力も擦り減らされていくという。
時間が経つにつれ、心が廃れていくのがわかった。いつもなら、なんとかなる精神で突っ走るのだけど、今回ばかりはその気すら起きない。
それに雪女どうこう関係なく、情報が遮断されるというのはとてつもなく苦痛だ。
天候、時間、日にち。ここにも存在しているのだけど、暗闇の世界ではあってないようなもの。するとどうなるのかといえば、当たり前が崩壊して、頭がおかしくなり始める。
普通の忍耐力では、人であろうが雪女だろうが、こんなところに長居はできない。
人であれば、自殺をするか生き絶えればそれで終わり。
でも、雪女は死ぬことがないから、永遠に苦しみ続けなくてはならない。
粧子は、ショックのあまりに、何度も何度も右手で地面を叩きつけていた。
◆
そんな時だ、どこからか肌を貫く鋭い冷気が吹き込み、まるで気付いてと言わんばかりに頬へ拭きかかった。
さっきまで一切変化が感じられなかった空間で、初めて覚えた違和感。
誰かいるのかもしれない。
思えばこの洞穴には、過去にも封印された雪女がいたはず。もしその話が本当なら、雪女は死ねない上にこの空間は成仏すら許されない。500年経過していなければ、岩に変わることもない。
だとしたら、かつて閉じ込められた雪女が近くにいると考えられる。
「誰かいるの?」
暗闇に向かって声をかけた。すると意外にも近くから返事が返ってくる。
「お侍さん、助けにきてくれたのですか...?」
耳慣れしない昔の日本語を話すか細い声は、誰かが助けに来たと勘違いしている。
「侍?私は粧子。侍じゃないよ!」
「...。です、よね...。」
その声の主は、残念そうに声を閉じてゆく。
無の世界で聞く誰かの声は、思いの外にその人の感情までも立体的に映し出すようだ。閉じていった声からは、期待していた気持ちをへし折られてしまった悲しみのようなものが、言葉にしない言葉で伝わってきた。
「ごめんね。なんか期待させちゃって。」
謝ってみたが、答えは一向に返ってこない。期待が外れたことが、よほど悲しかったのだろう。
粧子は、気まずさを感じながらもしばらくは黙り込もうとした。しかし、決心する必要がなかったみたいだ。
ふとした瞬間に、暗闇から再び声が戻ってきたのである。
「私、お初といいます。生きていれば、もう250歳です。」
このお初が、きっとグレーの雪女達が言っていた、人間に恋をして封印された雪女なのだろう。どうりで、現在とはかけ離れた言葉を話しているわけだ。聞き取れるけど、若干理解に時間がかかることが難点だけども。
お初は、250年近く会話をしていない為、話を始めたら一切こちらのことを無視して話を進めてくる。
喋りたがりの粧子にすら話す隙を与えない姿は、250年の孤独の辛さと、久しぶりに会話する相手が見つかった奇跡を痛いほど感じさせられた。
◆
お初は、元々この山付近にあった武家の生まれらしい。家の跡取りである兄が不治の病にかかり、彼を助ける為に秘伝の薬草を求めて雪山を訪れたところ、足を滑らせて沢に転落。そのまま帰らぬ人となったそうだ。
雪女に生まれ変わってからは、他の雪女達と共に自殺幇助や遭難者の安楽死計画へ従事していた。
その最中で、病で苦しむ兄を安楽死させるべきだと唆され、大雪の日に実家の武家屋敷を訪れるのだった。
この家の人間しか知らない裏口から中へ入り、兄が床に着く部屋の前へとやってきて、縁側に身を潜めながら部屋の様子を伺う。
亥の刻を回ったと言うのに、部屋の灯がついていて、兄がまだ起きていることがわかる。
病に犯されてから、夜ふかしなどすることもなくなった兄が、いったい何をしているのだろう。疑問に感じて覗き見することにした。
廊下に人がいないのを確認してから障子へ近づき、隅っこに小さい穴をあけて兄の姿を確認してみる。
すると懐かしい背中が見えた。
相変わらず酷い咳をしながらも、机に向かって筆を動かしている。大丈夫なのか心配だけど、見守り続けることしかできない。そんなお初の耳に、彼が時折独り言が聞こえてくる。
「お初。俺は必ず病を治してこの家を支えていくから、見守っていてくれよ。」
着物の袖には、乾いた血の跡が付いている。彼は、不治の病と戦いながら、必死に生き抜こうとしていた。諦めることなど一切せず、家の為、兄自身の為、そして亡くなったお初の為に。
グレーの雪女達は、生きることが愚かなことだと説いたが、精一杯命を燃やす兄の姿がそれを否定する。
生きることは確かに辛いことではあるが、辛い分儚く、美しい物なのだ。
この時から、安楽死計画に加担する自分が惨めでに思うようになり、兄に対して申し訳ない気持ちでいっぱいになった。
このままで良いわけがない、でもどうすれば良いのかわからない...
◆
武家屋敷を去ってからの帰りの夜道。乱れゆく気持ちを抱えながら、山の入り口にあるお地蔵さんの隣に座り込む。
1人で物思いに耽っていると、誰かが目の前に立ち塞がった。顔を上げてわかったその誰かは、長い刀を腰に巻いたボロい着物を着た侍であった。
「こんなところにいては寒かろう。お主名前は何と申す?」
「お、お初です。」
「お初。お主も家がないのか?」
「え、あ、はい。奉公先を追い出されてしまって。」
「おお、奇遇にも似た物同士じゃな。」
侍は、何の疑いもなく手を差し伸べてきた。
見るからにボロボロの着物を着ており、生前の自分であればそれだけで疑いの目で見ていたことだろう。
しかし、今は雪女である。仮に刀で切られても再生するし、逆に凍らせて返り討ちにすることも可能だ。その自信もあり、冷静に彼のことを見ることができた。
見た目はボロボロであるが顔は悪くない。それに笑顔や仕草からも、悪意のようなものを感じられなかった。
「小さいお堂がある。ここよりかは暖かいから来るが良い。」
お初は頷いて、侍が宿にしているお堂の中へ入った。
お堂の中はがらんとしていて、隅っこに侍の所有物であろう風呂敷が綺麗に置かれている。
壁に寄りかかり腰を下ろし、それからお互いのことを話す。当然ながら雪女ということは伏せ、生前のエピソードを交えつつも、町の女お初を演じた。
一方で侍は、元々隣の藩で奉公をしていたが、一年前に藩主が改易となってしまう。そのしわ寄せで自分も浪人になってしまい、奉公先を探す旅をしていたのだという。
そこでお初は、兄が奉公している藩で人員が不足していたことを思い出し、藩主の元へ足を運んでみることをお勧めしたのだった。
◆
一晩お堂で過ごしてから侍と別れを告げ、また一人ぼっちの日々を数日過ごす。
そして時が過ぎたとある雪の日、兄の様子を見ようと夜な夜な町へ出向くと、例の侍と偶然にも再会する。
どうやら彼は、無事に奉公先が決まったらしい。
「お初。隣町へ行くと言っていたが、まだこの町にいてくれたか。」
「え、ええ。呉服屋に拾ってもらうことになりまして。」
「そうか!それは良かった!」
この侍は、お初に好意を抱いていた。そしてお初もまた、侍のことを気にかけていた。2人は、しばらく交流を重ねた上で、一緒に暮らすことになったのだ。
もちろん他の雪女達には内緒でだが...
一方のグレーの雪女達は、お婆様を中心にお初の居場所特定に明け暮れていた。
お婆様は、保守的で掟にうるさいが、その一方で仲間思い。心の底からお初のことを心配しているからこそ、雪女が普段行くことがない町にまで捜索の足を伸ばしていた。
お初は、いち早くそれに気づく。
元から夏季を町で過ごすことができない為、タイミングを見計らい山へ帰る予定であった。
しかし、心から愛してくれる彼を引き離すのが申し訳なく、また独りぼっちになることも怖かった。
だから、心を決めることができなかったのである。
◆
とはいえ時間は待ってくれることはない。
ある早春の晩。侍が寝ている隣で考え事をしていたら、障子越しに複数の女性の影があることがわかった。
この家に住んでいるのは自分と侍だけ。お付きの女中などいない。嫌な予感はしていたけど、覚悟を決めないといけないようだ。
侍にバレないように、声を立てず障子を開く。
雲間から満月がちらほら顔を出し、影の正体を照らし出している。その中心にいるお婆様が、一歩前に出て話を切り出した。
「お初。自分が何をしているかわかっておるな。」
「はい。わかっております。」
「ならば、その侍を殺せ。それができれば、お前の罪は見なかったことにしても良い。」
チラッと後ろを振り向くと、侍が穏やかな顔で眠りについている。
確かに雪女は、人間と親しくしてはならないという暗黙の決まりがあった。『生』とは醜い物であり、『生』を体現する人間は雪女にとって敵である。姿を見られれば尚更殺さなくてはならない。
しかしよく考えてみたら、自分が雪女であることを侍は知らない。すなわち、まだ無理して彼を殺す必要はないということだ。
お初は、お婆様を説得しようと試み、侍との出会いから全てを話してみた。
でもお婆様は、険しい態度を崩さない。
「殺せ。気付いてないとも言い切れないからの。」
どうすればお婆様を説得できるのだろう。また優柔不断に陥る。
ただどちらにせよ、見つかってしまったからには、彼と別れなくてはならない。であるならば彼を殺して、彼にとっての永遠の女にでもなろうか。
苦肉の考えも湧き出し始める。
でも、彼を殺して許されたところで、自由が奪われないようで奪われる。罪悪感と後悔が一生自分を締め付けることだろう。
「お初、どうかしたか...。」
びっくりして振り返ると、彼が寝言を発していた。その穏やかで若々しい寝顔を見ながら思った。
彼はまだ若く可能性に満ちは触れている。そんな人生を、自分みたいな死者の為に捧げさせるのは、普通に考えればおかしな話。
この世の中には、兄のように死を突きつけられても懸命に生き続けている人がいる。自分勝手な都合で他人の命を奪うなど、到底受け入れられる条件ではなかった。
「私は許されなくても構いません。だからどうか、彼だけは見逃して頂けないでしょうか。お願いします。」
ひざまづき、お婆様に許しを求めた。
お婆様は、腕を組みながら、寝ている侍の顔を睨みつけている。
確かに気づかれていないとはいえ、お初を連れ戻した時、侍が事態を大きくするのは目に見えている。ことが大きくなれば、めんどくさいことも起こるだろう。
お初は、顔の険しいお婆様の足元に擦り寄り、がむしゃらに願い続けた。その時、1人の意地悪な雪女が、侍の枕元へ向かって行こうとする。
「やめて!何をする気!」
「汚らわしいあんたの代わりに、私が掟を遂行するのさ。」
彼女は、すーとっ息を吸い込み、冷めた吐息を吹きかけようとした。お初が止めに入ろうとするも、騒ぎが大きくなれば侍が起きてしまうかもしれない。起きたら全てが振り出しに戻り、彼は凍死させられることとなる。
焦って必死になっていたら、思わぬ助っ人が入った。
「やめんか!お扇!」
ひざまつくお初と目を合わせず、お婆様がお扇に喝を入れたのだ。
「お初がここまで言うのじゃ。やめといてやりなさい。」
意地悪雪女ことお扇は、顔を膨らませながら元いた場所へ戻り、他の雪女に悪口を吹き込みストレスを発散していた。
でも、お初にとってそんなことはどうでもよく、ただ侍との永遠の別れが心苦しくてたまらなかった。
侍がお初の寝ていた方へ寝返りを打とうとし始める。ここを出ると決めた以上は、呑気に口論している時間などない。彼が起きてしまえば、彼の命を助けることができないのだから。
「お婆様、最後に置き手紙だけでもお許し頂けますか?」
「わかった。じゃが、もしも侍が目覚めたら殺せ。」
お初は小さく頷くと、部屋に戻って座卓の前に腰を下ろし、手紙を一筆書き上げる。手紙と向き合うと手の震えが止まらず、2人の思い出が込み上げてきてしまう。
生きることは、とても尊いこと。
そんな想いと侍への愛を込めて、手紙を卓上へそっと置き、畳部屋から縁側へ出ようと彼の隣を通りすぎる。
お婆様の仕業だろう、天候が夕立のような暴風雪に変わり始める。暴風雪の中、雪女達が早くこいと言いたげな目でこちらを見つめていた。
お初は、止まりたい感情へ目を向けぬよう、振り返らずに部屋を去ろうとする。
でも、寝ているはずの彼から言葉が飛んできて心を掴まれた。
「お初...やはり君は雪女だったのか...」
ドキッとして立ち止まると、彼が続けてこう言った。
「だとしても...俺は君が好きだ...」
彼は起きているのだろうか。きっと寝言だと思うけど、仮に起きていたとして返事を返したら、彼が起きていることがお婆様にバレてしまう。バレてしまえば、私が彼を殺さなければならない。私が躊躇すればお婆様が代わりに彼を殺すだろう。
「私も好きだよ」って言いたいのに言えないのは、苦痛以外他ならなかった。
お初は惜しみながら部屋と縁側の境にある障子を閉め、自ら更なる暴風雪を巻き起こした。
辺り一面をより濃く真っ白に変えてから、お婆様の元へと駆け寄る。
グレーの雪女達が、待たせるなと言わぬばかりに無視をする。お初は、そんなくだらない嫌がらせに気に求めず、スタスタと雪煙の向こう側へと歩いてゆくのであった。
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お侍さんへ
私は、戻るべき場所へ戻ることになりました。不本意ですが、あなたと会うことは二度とないでしょう。どうか私のことなど忘れて、これから出会う素敵な方と、幸せな道を歩んでください。
さようなら
お初
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◆
侍がどのような人生を歩んだかは、洞窟に封印された身では知る由もない。またそれを知ったところでここから出ることは出来ず、ただただ歯痒い思いを抱くだけだ。
お初は、永遠の愛の代わりに、意図せぬ永遠の孤独を突きつけられた。あまりにも悔しくて、彼が愛おしくて、侍がいつか助けにきてくれるだろうと信じながら今もなお待ち続けているそうだ。
「250年も待ち続けるって凄いね。私は無理だわ。」
「凄くないですよ。本当に好きな人ならば、何千年でも忘れられません。」
改めて考えてみれば、思い当たる節は幾つもあった。
自分が雪女になった理由は、不本意にも『生』に恨みを抱いたから。そして意図せぬ理由に気づいたことが、雪女粧子としての使命だと思い込んでいた。
だが、お初の話を聞いてから、引っかかることがあった。
それは、あの人に対しての気持ち。
『俺が絶対に助けるから。』
あの人の言葉が今でも耳に残り続けている。
もしかして自分も、彼が助けに来てくれることを信じ込んでいるからこそ、その未練が魂を雪女として蘇らせたのかな。このような疑問が湧き上がってきた。
しかし、彼がこの場に助けに来る可能性は、雑に見積もってもゼロだ。毎年命日に1人で花を添えにきてくれているのは知っていたが、死んでこの世にいないとわかっているからこそ花を添えに来てくれる。
現に自分は、この世に居るけど死んでいる。
また、誰にでも雪女が見えるのかといえば、そうでもない。そして仮に彼が雪女を見ることができたとしても、術で永遠に閉ざされたこの穴の中にいる以上、再会は夢のまた夢である。
出る杭が潰されて行くかの如く、希望の芽が踏み躙られていった。心の拠り所でもあった右手の温もりも、グレーの氷柱で突き刺された痛みのせいで感じられなくなり、心が孤独と絶望に覆い尽くされてしまう。
お初も話し疲れたのか黙り込み、音が響かぬ真空へ再び引き戻されて行く。視界が回復してゆくこともないから、お初の姿も、自分がどんな表情をしているのかすらも確認できない。
時間も物体も、音も光も何もかもない孤独の世界。まだ1日すら経っていないというのに、辛くて感情が抑えきれそうにない。
粧子はただ1人、無意識に小声で日那斗の名前を唱え続けた。