12.白銀の果てにある海
文字数 2,217文字
五右衛門と雪の精霊達は、「旅順港はこの先にある」などと、日露戦争を妄想しながら勇ましく頂上を目指している。
粧子も粧子で、夜明け前の雲間から見える星空を見つめ、星座を目でなぞりながら楽しんでいた。
俺はといえば、歯をカチカチと振るわせて怯えながらも、粧子の美しい横顔目掛けて身体を前進させる。そしてある一定のところまで来た時、滑落して滑り出した。
「うわああああああああ。」
情けない悲鳴と共に谷底に滑り落ちていく。頭が真っ白になり絶望すら思い浮かばず、この前までの自殺願望はどこに行ったのか疑いたいくらいだ。
なんで死にたいのに生きたがっているのだろう。
この疑問が走馬灯のように脳裏をよぎった時、雪の精霊達に3人がかりで抑えられ、なんとか死なずに済んだ。
精霊達は、こんな場所でも自由自在に動き回れるようだ。ならば最初から後ろで支えてくれよと、我儘を漏らしたい気分である。
頂上に近づくに連れ、突風が吹き荒れる。
俺は死なない、俺は絶対に死なない。
当初の目的と矛盾した単語を、誰にも聞こえない小言でブツブツ呟く。すると気がついた時には、生きたいのか死にたいのか曖昧になり、自分を見失っていた。
だけども痛いのは怖い。だから滑落しないことばかり考えつつ、山登りに集中した。
すると、長いトンネルから解き放たれたような声が聞こえてきた。
「すごーい!みてみてー!」
「おおー、夜明け前の星空か!」
粧子と五右衛門が背後を振り返り、絶景を見ながらはしゃいでいる。でも俺には、後ろを振り返る余裕などあるはずもない。頂上の風景だけに集中して登り続ける。
きっと粧子は、絶景を見せて感動して、生きる楽しさを感じてもらいたいと考えているはずだ。だが、俺を舐めるな。この俺がその程度で気が変わるわけない。
強がる俺の心の闇を照らし出すように、徐々に山肌が明るくなっていき、影が現れて映し出されていく。
ついに夜明けが訪れ始めたようだ。
それと同じくして、俺達も山頂に到着したのである。
◆
膝に手を置いて息を切らす俺の真横で、粧子がどこか遠くを見つめていた。その目つきはとても澄んでいて、なぜか物悲しいさを感じてしまう。
なんというか言葉で表現するならば、届かない世界へ必死に手を伸ばす、強く綺麗な感情で溢れている。
そして彼女は、誰かに語りかけるように独り言を呟いていた。
「眼下に広がる白銀の世界。この雪景色の果てには海がある。それに、私の故郷も...。」
俺も同じ方向を向くと、眩い朝日に照らされた壮大な雪景色が姿を現した。
スキーリゾートのある山、ゲレンデ、樹氷、凍った湖、静まり返る旅館やホテル。
このスキーリゾートと周辺の山々全てを見ることができる。それはまるで、世界の中心に立っている気分だ。
鳥も人もどこにもいない無の世界。
北風と雪、白と銀の孤独の世界。
白を基調にした雪化粧に覆われた、まっさらな自由帳のような純粋な世界。
その純粋な世界の果てから差す太陽は、まっさらなノートに差し色を入れるように、強く、優しく、人の体温のような温かい光で照らしていた。
これらを見ていると、美しいと思える気持ちが身体の隅々まで行き渡り、心を揺さぶられてしまう。
「いいね、泣くことができて。」
チラッと横を見ると、彼女がうっとりと景色を眺めている。その顔はいつもの彼女とはまた違う、何かから解き放たれたような表情にも見えなくもない。
「春太郎が羨ましい。」
「は?何で?」
「顔が生き生きしてる。初めて会った時は、やつれた塩昆布みたいな顔していたのに、今は物凄く生命力で溢れている。」
つくづく余計なことを言う奴だと思いながらも、可笑しくて笑っている俺がいる。なんだろうこの感覚、物凄く久しぶりな気がして、心の底から熱いものが湧き上がっていた。
再び景色に目をやると、濁っていた心があの世に持っていかれるくらい透き通ったようにも感じた。
しかし、思いつく限りの言い訳を彼女のペースに持って行かれている自分へ言い聞かせ、冷静を保ち直そうとする。
その傍で粧子は、景色の最果てを見つめながら、本来雪女が苦手とする太陽の光を浴び続けていた。
「さっき山登ったじゃん。私や五右衛門は、あれを一切辛いと感じられない。雪の精霊に体力は存在しないからさ。だからね、達成感とか生きてるっていうあの感じが湧いてこないんだ。」
彼女が拳を悔しそうに強く握りしめている。いつも明るく振る舞っているが、やはり無理をしているのかもしれない。
こんな場合、どうすれば良いのだろう。良い対応が思いつかなくて、また思いついても頭から抜けた。考えに考えた果ては、彼女の拳を握ってあげるという愚行である。
いざ握ると、彼女が鋭い目でこっちを見てくる。俺は慌てて言い訳を考えた。
「なんか力んでるから、大丈夫かなと。」
「力んでなんかないよ...。力んでないけど、ただこうやって拳を握れば、冷めた心に火が灯るかなって思っただけ。」
言い終えた彼女の拳から、力が抜けていくような気がする。自然体に戻ったというよりも諦める見たいに。
でも、かすかな間だけ、雪女粧子ではなく生前の彼女を見ることができたようにも感じた。
太陽の光が強くなってくる。神々しい光は、この白銀と豪雪の冷めた世界を強く見守っている。
粧子もまた、しばらく光に照らされながら見えるはずもない海を見続けている。その姿は、時々透けて見えるほど、純粋で美しいかった。