17.先駆者の遺書
文字数 4,624文字
思い返せば思い返すほど、彼女と過ごしていた日々がとても充実していたことがわかる。
あの時の俺は、隙を見計らいながら自殺を試みていたくせに、反比例するような楽しい時間を過ごしていた。
彼女に容赦という概念は存在せず、とことん自分の理想を求めている。その姿は、見方によればゲスい女なのかもしれないが、人間以上に人間身があって面白い。そこが彼女の魅力でもあり、雪女のくせにイケメンについて熱く語るシーンを思い出すと、こんな状況下なのに笑みが溢れてしまう。
そうやって浮かれていたら、足場の一部が崩落した。
癖で悲鳴をあげそうになるが、突発的に出てくる言葉を喉の辺りで抑え込む。
お前を見返せるカッコ良い男になってやる。
そう言い張る俺を、ゲラゲラ笑う彼女の顔が脳裏によぎる。
それが良い意味の腹立たしさを生み、死の恐怖を踏み倒す。
おかげで俺は、なんとか崖沿いの道を進んでいくことができた。
立ち止まっていても何も変わらない、先へ進まないと未来は見えてこない。
一旦妄想を抑えて無心で崖っぷちを突破すると、山頂ルートへ進む洞窟が姿を表す。
五右衛門の指示に従い洞窟へ入らず、山肌を沿う形で雪をかき分けながら右方向へと舵を切る。
一難去ってまた一難。
崖を越えればなんとかなるという考えは浅はかで、急斜面を滑り落ちないように横へ進むことも死と隣り合わせだ。
蟻地獄の如く足に絡みつく雪は、俺を山肌から引きずり落とそうとしていて、気を許せば二度とここへ上がってくることはないだろう。
体力も限界を超えている。運と気力を頼りに、粧子と五右衛門のことを思い浮かべながら、決死の横断をこなしていく。
そして無事に尾根へやってくると、次は猛烈な暴風雪が襲いかかってきた。遮る樹氷もないこの場所は、地獄という言葉が1番しっくりくる。
粧子らと出会うことがなかったら、もうダメだとここで人生を諦めていたことだろう。亡霊の声にも聞こえる吹雪は、俺をあの世へ連れ出そうと迫ってきた。
体力、気力が尽きかけ、眠気も湧き上がってくる。寒いから汗をかいているとか疲れている感覚がなく、自分が疲れているかどうかも把握しにくい。
それが故に、いつのまにか疲労困憊していた。ここが宿舎の畳の上なら、1秒も経たずで眠りについていることだろう。
それにしても、何故生きたいと懇願すればするほど、意地悪に死の瀬戸際へ追いやられていくのか。
眠気がじわじわと思考を停止させてく。
おかげで片足を踏み外し、尾根の左側へと数メートル転落。下がふかふかの雪だったから命を取り留めたけども、これが夏季の山ならばとっくに死んでいたに違いない。
打撲の痛みが眠気を和らげる。踏ん張り立ち上がり見上げると、3メートル程の高さを背中から落っこちたことがわかった。
眠気が晴れると共に、死の恐怖が刻々と染み込んできて、泣き叫びたくなってくる。
でも後戻りはできないし、逃げ出すことすらできない場所まで来ている。そんな俺の身体は、打撲と凍傷で全身が痛み、吹雪が顔面へ吹き荒れた。
『くそ、なんでいつも上手くいかねえんだよ!』
と、開かぬ口の代わりに心の中で苛立ちをぶちまけ、足元の踏みつけられた雪を見て前進していることを確認する。
そして、一歩、また一歩と運と勘に任せて尾根沿いを歩いた。
◆
死ななかったことが奇跡だ。
暴風雪が弱まり視界が若干よくなると、目の前に大きな断崖絶壁、その中腹に隠すように存在する洞穴が見えた。近くの崖の下を覗くと、遥か下には幹線道路も存在している。
五右衛門の言っていた場所は、ここで間違いはない。
そしてもう一つ気付かされた事実。
それは、下の幹線道路が粧子の絶命した事故現場であるということ。
これは単なる偶然なのか、それとも関係があるのか。色々考えたことでもやもやが湧きながらも、改めて崖の中腹へ目を移す。
視界がよりハッキリとし始め、洞穴の不気味さが刻々伝わってくる。何か変わり映えがあるわけではないけど、心霊スポットでよくある心理的瑕疵のような、気持ちがどんよりとなる感覚に捉えられる。
でも思い返してみればと、粧子も含む雪女はいわゆる霊。霊が沢山住み着く洞穴ならば、そうなることはごく当たり前で頷けた。
さて、現実的な話に戻せば、まずはこの崖を登る方法を考えねばならない。辺りを見渡しても雪しかなく、ゲームのようにピッケルや登山用具がそこら辺に落ちているなんて奇跡は起こらない。
最後の最後で大きな壁にぶち当たり、疲れがどっと身体にのしかかってくる。クライミングは愚か、登山すらしたことないのだ。難易度マックスのアルパインクライムなど、初心者ならではの自殺の手法の一種と考えても良いくらいだ。
そびえ立つ壁が、膝を地面に着きたがる俺を見下ろしている。まるで粧子の首に手を回し、彼女を人質に取りながら、男として情けない俺を見下すように。
考えれば考えるほど悔しくなる。
やっぱ俺は、生きようと考え直すこと自体ナンセンスだったのか。結局生きていても、大切な人ができても、最後の最後で何もできず情けない末路を辿るのだろうか。
神様が作ったギャグ漫画の笑われ役みたいだな。
自分に嫌気がさして、思い切り足元の雪を蹴っ飛ばした。
すると何か硬い物に足がぶつかり、突破的な痛みが足を襲う。
「痛ってえな!クソが!!」
苛立ちながらもその正体へ目を向けると、なにやらバックパックみたいなものが、雪化粧を
登山客が忘れていった物だろうか。
人の物を勝手に使うことは悪いことだけども、この状況では背に腹を変えられず、天に縋る思いでバックパックを手に取る。
ゴツゴツとしていて中身が重厚、死体でも入っているのではと恐怖を抱きながらも、壊れたチャックをこじ開けた。
◆
中身を確認してみると、ピッケルやロープが入っている。それだけではなく、アイゼンやヘルメット、グローブ、スノーゴーグルなど、登山用具の一式全て残されているではないか。
これは最強の支給品である。こんな奇跡があって良いものなのか。そう思いながら人生山あり谷あり論を思い出し、次に不幸が起こらないか心配で辺りをチラ見してみる。
それから、大切に中身を取り出し、使ったこともないそれらを勘任せに着込んでいく。
道具は使い古されているけど、どれも丁寧に仕舞われていて、所有者が大切に使っていたことが伝わってくる。
そして全てを整えてから、バックパックを逆さにして中身が無いか改めて確かめると、サブポケットから圧縮袋に入った一枚の手紙が出てきた。
別に捨ててしまってもかまわないが、重要なことが書かれている可能性も捨てきれない為、悴む手と葛藤しつつそれを開いてみる。
だが開いてみて、開いたことを後悔した。
手紙には、先程まで意気揚々していた気持ちに銃弾を打ち込まれるかの如く、重い内容がつらつらと綴られていた。
遺書である。
読まないでおこうと考え、バックパックにしまい込もうとした。
でも、ただで道具を使わせて頂くのだ。
彼の所有物を利用する者として、いくら急いでいたとしても、彼の最後の言葉を聞くべきだろう。
そう思い、再び遺書を開き、凍える手足を震わせながら内容に目を通す。
◆
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私は、自らの嫉妬心で人間関係の全てを失った。自らの執着心で、大好きな人の心を深く傷つけてしまった。そして、自らの腐った性格により引き起こした過去の失態と、変えることが不可能な自分の本質と向き合った絶望が、自らの命を奪い取ることになった。
私は、この人生で誰かの為に何かをしたことがなければ、誰かの幸福を素直に受け入れたことがない。心が壊れた人間だ。
確かに成長過程の環境のせいにすることもできなくもないが、そうすることが恥ずかしいと思う歳になってしまい、それすらままならない。
誰かに心を開こうにも、プライドがそれをさせてくれない。したところで、友達になってくれるわけでもなく、ただそのグループのダサいキャラで括られてしまう。それが怖かった。
誰にも言えず、滲み出る邪悪なエネルギーは、次第に他者にも向こうと体内を暴れ始める。
これを止めるには、自分で自分の命を断つしかなかったのだ。
絶望の縁に落ちた私は、ある日とある夢を見た。学生時代にスノボーを初めて嗜んだ、この垓下リゾートスキー場の夢。
そういえばあの頃の私の目標は、自分のような惨めな生活を送るハメになった人を救う為に、人生を何度でもやり直せる土台のような会社を企業することであった。そして根本にあった思いは、誰かの為に戦いたい。それに尽きたていたはずだ。
しかし、気づいてしまった。
私には、そんな資格はないし、人間としての価値が微塵もない。だからこの山で死ぬ事を決める。
ただ、私は意地っ張りで頑固者だ。最後に1つだけ、自分の惨めな人生に抵抗してからこの世を去ることにしよう。
力になれるかわからないけども、ここに私の登山セットを捨てていく。もしも遭難者が私のカバンを見つけたら、中身を自由に使ってくれ。
そして、1日でも長く生きて必ず山を出るのだ。
このカバンを見つけた君は、まだ神様から見捨てられていない人間だ。私が言うのもあれだが、生きて、もう一度だけでも良いから自分の人生に挑戦して欲しい。
君なら何かできることがあるはずだから。
そして、君が生きる意味を思い出した時、かつての私の夢であった人を救うことが成し遂げられるのである。
登山愛好家 卓吾
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卓吾という男が、どんな末路を辿ったのかは知る由もないが、恐らくグレーの雪女達の手助けを受けながら凍死したのであろう。
それはさておき、文章を読む限り彼の境遇は俺と似ている部分が多く、非常に共感できる内容でもあった。
彼は、自らの生きがいを超える劣等感に押し潰され、夢や目標を誰かに託して死を選んだ。
その投げ捨てられたバックパックに詰まった夢を俺がたまたま拾い上げ、彼の気持ちを汲み取った。
この登山用具には、多大なる思いが込められている。
俺は、卓吾の遺書を胸ポケットに詰め、心を決めてから崖にピッケルを突き刺して登りだす。
止まったら最後、恐怖に怖気付いて上へ進めなくなるだろう。
ザクッ、ザクッ、という軽快な音を立てながら、ほぼ垂直の急斜面を勢い任せに登り切った。
根性と気合の果てにたどり着いた洞穴は、中から冷気が吹き上がり、空気に触れるだけで肌が切り刻まれるような痛みも走る。
この悍ましい邪念のような恐怖は、一歩でも立ち入ればただで済まされないと、空気感だけで叩きつけてきた。
俺は、卓吾に一言断りを入れてから、先程の遺書を筒状にしてピッケルに括り付け、先端に灯油を塗りライターで火をつけた。
彼の夢は、人を救うことだった。
俺が粧子を助け出せば、粧子や五右衛門はまた沢山の人を自殺や遭難から救い出すことだろう。
これこそ卓吾の死が報われることにも繋がる。
だから遺書を焼く蛮行は、致し方ないと受け入れてくれると考えた。
それに人ではないけど、俺も粧子という大切な女性を助け出す為にここへ来たのだ。手段など選んでいる余裕はない。
遺書が燃えカスに変わる前に粧子を見つけ出す為にも、火のついたピッケルを片手に洞窟の探索へと乗り出した。