9.本音ぶつかり合って
文字数 5,086文字
そして、一瞬のうちに地上へ到達する。
接触音と共に白煙が視界を覆う。ごごごごご、と身体が雪を貫いて埋もれ、曇天の雲間からほんの少しだけ見えた太陽が掻き消されていく。
おかしい。あのまま落ちたら岩場に激突するはずなのに、意識を失わず、しかも雪の中だなんて。
どうやら俺は、自殺は失敗したようだ。それも、奇跡的な生還という形で...
どこでミスしたのだろう。意図せぬ滑落だから、正確に岩場へ落ちれなかったのかもしれない。ただそれにしても、雪がふかふかで驚くほど柔らかく、まるで布団である。
雪に埋もれ、しばらく息が落ち着くまで考え事をする余裕すら持てなかった。死ねなかったことに意気消沈しながら、呼吸が整うのを待つ。
ある程度落ち着いた頃、思考の熱を覚ますように、冷静な気持ちで現状をもう一度考え直してみる。
そして気づく、ここへ埋もれることこそ安楽死への道だということ。天気も曇りだし大雪が降りそうな予感。これは絶好の機会だ。
極め付けには崖の下だから、粧子も見落とす可能性がある。なんと言っても生身の人間が、こんなとこにいるとは思わないだろうから。
俺は、あの世を想像しながら清清した顔で再び目を閉じようとした。
ところが、急に顔の前の雪がゴワゴワと動き出した。そして瞼の先が明るくなったと思いきや、誰かが手を差し伸べてくる。
「大丈夫?」
...終わった。この声は粧子だ。どうやってここを見つけたかわからないけど、ついに見つかってしまった。俺が無言で彼女を睨む一方で、彼女は膝を雪の上についてホッと一息ついた。
「危なかった。あいつらの言いなりにならないでね。あんな可愛らしい見た目でも悪霊だから。」
余計なお世話だと心の中で呟き、彼女を無視して身体を起こし、改めて周囲を見渡した。
すると、さっきまでゴツい岩が顔を出していた場所が、どデカい岩すら隠すくらい、見渡す限りの積雪で覆われている。
これも粧子の術なのだろうか...
だとすれば、これだけの雪を自由自在に操るなんて、雪女とはとんでもない化け物だ。
関心はした。それに、俺のことを思って助けてくれた行為には感謝している。けど今の俺にとっては余計なこと。
滑落は想定外だったけども、望んでいた死の間近に迫っていたことは事実。計り知れない勇気を振り絞り、恐怖のボーダーラインを超えてようやく辿り着けたというのに、彼女はその勢いをへし折ったのだ。そう思ったからこそ、非常に激しく苛立ちを覚えた。
「お前、邪魔なんだよ。」
「何?それが助けてあげた人への態度?じゃあ助けなきゃ良かったわ。」
文句を言いながらも、結局は助けてしまう。少しお節介なあたりに苛立ちを覚える。
彼女から見たら良いことをしたのだろうけど、俺からしてみたら崇高な計画を邪魔され、覚悟を踏み躙られたに等しい。そして、死ねないということは、またうやむやな日々を過ごさねばならない。彼女はこの辛さをわかってない。
「助けてなんて頼んでない、こっちとしてみれば迷惑なんだよ。」
「え?」
「え?じゃねーよ。お前は俺を拷問にかけて楽しんでいるのか?」
「あー、えっと、何?何のこと?意味不。」
「だからさ、死んで楽になりてーのに邪魔すんなって言ってんの!雪女のくせに人助けだって、馬鹿馬鹿しい。お前のやっていることは、人から死ぬ権利を剥奪してるんだよ!」
周りが見えなくなっていた。彼女を言いまかすことに満足を覚え、鼻が天狗になっている。改めて彼女の方を見下して見ると、非常に冷たく固い雪玉みたいな言葉が、顔面目がけて飛んできた。
「そんなこと...言わないでよ。軽々しく喋らないで!!!」
こいつ何様だ。そう思った俺は、彼女を消し去る剣幕で怒鳴りつけ返す。
「お前に俺の何がわかる!俺の気持ちは俺にしかわからない、俺の命の価値を測るのも俺だ!お前ごとき他人にとやかく言われる筋合いはねえ!とっとと消え失せろ!」
その場にサッと静けさが漂い、彼女が黙り込んだ。俺は、してやったとため息をつく。怒鳴り散らしたことでストレスが晴れ、鬱屈とした気持ちが紛れて清々しい。
でもそれは一瞬のこと。ちょっとすると虚しさで溢れかえる。俺は、こんな女性を怒鳴りつける男になりたいわけじゃなかった。
昔はそう、弱い者を守れる周囲からの憧れの中心人物になりたかった。自分で自分の根本の野心に泥を塗ってしまったのだ。そうやって先程の発言を悔やんだ。
こんなカッコ悪い経歴の俺じゃ、これから何やっても上手く行くわけがない。やっぱり死にたい。生まれ変わりたい。
頭の中がネガティブに覆われ、清々した気持ちが元の鬱屈とした気持ちへ巻き戻る。
そして、虚しさで溢れた気持ちの隙を突くように、粧子の術の効力が切れた。切れたと同時に、体温が一気に低下し始める。
これも何かの暗示なのかもしれない。もういいや、これが俺の情け無い死に様なんだ。そのように、自分自身の哀れな姿を受け入れていく。
夕暮れ時。雲間の一部が俄かな明かりも消えていこうとしていた。
生きる意味、そんなもの見いだせない。こんな誰も悲しまない俺の命なんて、無かった方が良かった。身体の力を抜いて自由になる。寒さで身体が麻痺してきて、音も臭いも全ての感覚が失われていく。
きっと粧子も諦めてくれたに違いない。俺は、全てを投げ捨てて感情を無に戻す。自分の哀れな最後を噛み締めながら、疲れた身体を雪山に埋葬しようとした。
でも、身体に感じたあの違和感。極寒の夕暮れ時の雪山で、あるはずの寒さを感じることが出来なくなっていく。指も首も普通の感覚に戻り、悴んでいた部分も普通に動かせるようになる。
ふと隣を見ると、粧子がいつものように俺の腕へ手をかざしていた。また術をかけてきたのだ。粧子は、意地でも俺を自殺させないつもりだろう。
◆
「勝手なことすんなよ。」
「勝手に死なないでよ。」
「だから!これは俺の人生なんだ!俺の自由だろ!」
「自由かもね。でも私がそれを止めるのも、私の自由だから。」
言い返そうと彼女へ顔を向けた時だった。とてつもない衝撃が目を通して脳に走り、全身に鳥肌を立たせていく。
彼女の顔は、一部が潰れ、皮膚が真っ赤な血痕で染まっている。
さっきまで着ていたスノーウェアが、ブランド物のダウンジャケットに変わり、ニット帽を被り、長ズボンにスニーカー。髪色も鮮やかな茶髪。
そのいつ着替えたのかわからない私服には、鋭いガラスの破片が突き刺さり、破れ、一部は焼けただれていた。
「粧子...」
突然の変貌に身体が膠着して、金縛りにかかったみたいに動かない。生々しく狂気に満ち、これまでの感情が掻き消されていく。
「な、なんだよそれ。俺を脅かそうとしているのか?」
彼女が首を横に振る。
「私の最後の姿。生前の最後の私の姿。本当はこんな姿になりたくなかった。生きて、幸せになりたかったのに。なんで、なんで私、死なないといけなかったの...」
「し、知らねえよ。知らねえ...」
その崩れ落ちそうな風貌を隠すように、雪の粉が吹き付けられる。
どんな言葉をかけてよいのわからない。それに恐ろしくて、すぐにでもこの場を逃げ出したかった。
しかし、粧子が俺の腕を掴んで離さない。
「こうなりたくなかったのになっちゃった。私は生きたくても、生きられなかった...。だから、簡単に命を捨てようとする人が許せない。」
「でも、それは俺とは関係ねえよ。粧子の考え押し付けんなよ。」
俺は、懸命に正論をぶつけたが、粧子も一切折れる気はない。
「押し付けかもしれない。でも、私にできることがあるなら、手を尽くしてでも止めたい。」
「できねえって。俺に生きてる価値なんてない!人から必要されない需要の無い人間だから。」
「何でそんなことが言えるの?わからないじゃん。この世には、まだ春太郎と出会ったことのない存在が億といる。必要としてくれる人がいないなんてありえないよ。」
この手の発言は嫌いだ。粧子にとって俺と誰かの人間関係は、上手くいけばなんでも良いのだろう。でも俺自身にとっては、誰でも良い訳ではないのだ。
「あー、それは昔にカウンセラーからも言われたよ。だけど俺は、必要とされたい人から必要とされなきゃ意味がないんだ。」
粧子の口調は、時が経つにつれて鋭く曇る。
「例えば?」
「好きなタイプの女性とか、仕事のできる人とか、仲良くなりたい人とか。」
「何それ、我儘だね。」
「何が悪い。」
「自分勝手。そんな人が主張する自殺の権利なんて、薄っぺらくて胸糞悪い。」
例え粧子だろうと、ここまで言うのは流石に違うと思う。自然と感情が高ぶり拳に力が入る。
「人の悩みに薄っぺらいもあるかよ!!!」
「あるよ!そんな薄っぺらい死生観を語られて、本気で腹が立ってきた。」
「別に考えなんて各々だし。」
「周りの人が悲しむとか想像できない?」
「悲しんだところでなんだ。俺を散々利用しようとしてきた奴らしか残ってないぜ。自分の立場を上げる為に俺を出汁に使ってきた歳下とか、支配欲を満たそうとする親とか、比較教育ばかりする上司や先生。ロクな奴いねえんだ。」
熱弁する俺とは相反して、粧子は落ち着きを取り戻していく。
「うん...。確かにそんな人生だったのかもね。けど少なくとも、私は悲しい。」
「俺のどこが?女性からも会社からも必要とされず、友人と思っていた奴らからも、いじるコマとしか見られていなかった役立たずなのに。」
「そんなことはどうだっていい。ただ、何ていうか、凄く哀れ。」
彼女は、スーっと冷めた息を吐く。雪女でも深いため息つくんだと謎の疑問を思い付いては、気持ちを落ち着かせる為に自分へ言い聞かせてみた。
彼女と話していると、つい死のうと決めた覚悟が頭の隅に追いやられていく。そして毎回入れ替わるように、この不思議な体験について疑いを持つようになる。
そもそも、雪女なんて本当にいるわけがない。やっぱり俺は既に死んでいるに違いない。死んだからこそ、あの世で雪女の粧子から、犯してしまった自殺という殺生に対する説教をくらっているのだ。
そうに決まっている。こんな極寒の山で、2週間も1人で生活できるはずもない。
あと可能性として、もし雪女が実在するというのならば、この粧子という雪女に殺されたとも考えられるだろう。
伝承だと、雪女は男をたぶらかし殺す化け物。粧子は、綺麗事を並べた人ならざる者に違いない。
これまでに起きた全ての謎へ、無理矢理仮説を結びつけていく。そうでもしなければ、自分が自分で居られなくなってしまう。
とはいえ奇遇にも、俺は雪女と会話ができる。せっかくならば、彼女や五右衛門、雪の精霊、悪霊。奴らの謎に迫ってみるのも面白そうだ。
◆
粧子の顔を見ると、さっきまでの傷だらけ顔から、普段の綺麗な顔へと戻っていた。
目がぱっちりしていて気の強そうな顔。着物ではなくスキーウェアを着ている。その上で性格は傲慢でデリカシーがなくて面食い。でもストイックで素直で、本当の優しさを兼ね備えている。それから陽キャラで、考えがちょくちょくゲスい。
一般的に雪女と言われて想像されるような、着物を着ていて目が細くて吊り目で、長い髪と紫の唇、色白。このイメージとは相違している。
イメージが重なる部分といえば、色白で黒髪ストレートの長髪くらいだ。
俺は、気になることが沢山ありすぎて、どう探っていこうか迷い次の言葉がなかなか出なくなる。だから無理にでも、問いかけを引き出すのであった。
「なあ粧子。お前のことが気になっている。」
すると彼女は、ドン引きするように顔を曇らせる。
「キモい。それに私のタイプじゃないし。」
「勘違いするな。雪女と話せる機会なんて滅多にないから、お前のことをもっと知りたいって意味だ。生前のことも含めて、何で雪女をやっているとか。」
粧子は、考える素振りを見せてから立ち上がり、南西の山の中腹を見上げる。
その視線の先には、うっすらと見える峠道のヘアピンカーブが、雪山に埋もれるように顔を見せていた。道は除雪されているようだけど、雪道に慣れている人でないと通れないような場所だ。
「あの道を目にすると、嫌な日を思い出す。」
彼女は、その道路から目を逸らさず、険しい表情を浮かべる。それから独り言みたいに話を始めた。
「雪女は涙がでない。泣けないから悲しみを和らげる術がなかった。だから、ここには来たくなかったの。でも、来ちゃった。私みたいに、あなたを死なせたくなかったから...」