7.北風が打ち付ける崖で
文字数 2,161文字
自殺をしなかった世界線の夢。
自殺計画を延期して、時を忘れたように粧子達と過ごしていたら、いつの間にか春が来て雪がなくなり凍死計画に失敗。
雪の精霊は、4月になると11月まで力を失うとのこと。だから粧子達は、次の冬まで長い眠りに着く。
粧子の術がなくては、山小屋は廃墟へと変わってしまう。すなわち食堂もなくなり食糧難に陥るだろう。そうなってしまうと、山で1人細々と冬を待つなんて考えられない。
また、彼女らと別れた後に崖から飛び降りることもできる。だが、痛いのは嫌だから、結局何もできない。
そして時が経ち死への恐怖が決意をへし折り、無気力になりながら怯えて街へ戻ることになる。
街に戻った時に残されたのは、バックレた会社からの懲戒処分で梯子が外されたキャリア。世間体しか気にしない家族からの暴言。貯金とスキル共にゼロの最悪の状況。もはや生き地獄。希望の光もない底辺の日々を永遠と歩んでゆくことになった。
そんな悪夢だった。
思い出しただけで、表情が無茶苦茶にされるような不快感に包まれていく。
あの夢が未来を予知しているのだとするならば、早いうちに手を打つべきだ。もう明日にでも、一晩極寒の雪の中で眠って、あの世へ行くしかないだろう。
◆
晴れ渡る日の真昼の雪山。太陽が出ていて視界が良好。スノボーをやりに来ていた大学生の頃なら、この景色を見てはしゃいでいただろう。
だけども今の俺にとっては、太陽の光は眩し過ぎて、鬱陶しくも思える。山小屋から距離を置いたら吹雪いてくれることを願いつつ、こっそりと山小屋を抜け出す。
ある程度までは、足音を立てないように慎重に歩き、100メートルくらい離れた辺りから思い切り走り出す。
雪は深く足が埋まり、その上に斜面を登っているのだから息をすぐ切らしてしまう。できる限り距離を稼がねば、粧子に追いつかれて邪魔される可能性が高まるばかりだ。
視界が良好だからこそ、動きやすくて死ぬのに最適な場所も見つけやすい。その一方で、粧子から見つかる可能性も非常に高い。彼女は運動神経が良く、いくら太陽の光で雪女の力が弱まっていたとしも、見つけられたら最後だ。
休憩を挟みながら進み続けていると、いつの間にかゲレンデを横にそれ、樹氷の森にたどり着いた。
樹氷群の周囲は、山頂方面から非常に強い風が吹いており、石兵八陣を彷彿させる気味の悪い風音を立てている。
とはいえ、迷い込むならそれで良いのだ。粧子や五右衛門に見つからず、1人で密かに自殺できるのであればそれで...
恐れずに進んでいると、現れたのはゴツゴツとした岩場で形成されたそり立つ崖。その上には突き出したスペース。知らないけど、自殺の名所と紹介しても信じてしまいそうな場所が見つかる。
俺は、一回立ち止まり、これこそが望んでいた場所だと心に言い聞かせた。
一度登れば戻ることはできそうにない。だが、例え戻れなくなる場所でも構わない。そもそも戻るつもりなどないのだから。
とにかく、彼女が絶対に来ないような場所へ辿り着かねばならない。
◆
あれから何時間経ったのだろう。粧子曰く、12時間以内に術をかけ直さないと、俺の身体が生身の人間と同じ体温構造に戻る。
つまり、身を潜め続けて、時間が経ったタイミングで眠りにつく。そうすれば事は成し遂げられるのだ。
ただ時間が経つ前に眠りにつけば、気付かぬうちに連れ戻される可能性もある。そのリスクを考えると、時間が経過してから眠らなければならない。
時計も無いからどうやって時間を測るか悩んでいると、ウェアの裏ポケットに昔使っていたアウトドア用の腕時計が入っていた。しかも奇跡的に存命。
運が良い。これでなんとかなりそうだ。
とはいえ、安心できるほど心に余裕はない。太陽が出てる間になんとかしなければならないのだ。
太陽が出ていれば、俺は動きまわれるが粧子の力は弱まる。今のうちに距離を稼ぎ、彼女に見つからないような場所へ向かはねばならない。
俺は自分を鼓舞しながら、先程のスペースを目指して崖を登る。
粧子の術が効いている間は凍傷になる心配はない。だから雪と岩を鷲掴みながら、無敵状態でそこへたどり着いた。そう思っていたが、全て上手くいくわけでもなさそうだ。
結果的に手は血だらけ。粧子の術で凍傷にはならないが、皮膚が固くなるわけではないようだ。尖った岩が刺されば当然傷が付く。痛かったし怖かった。だけども人は、死ぬ気でやればなんでもできるのだと今更気づく。所詮は今更。もう後戻りはできないのだけど。
一度登れば降りることは困難、これは自分の覚悟を固めるには都合が良い。それに強い北風が吹き荒れており、凍死には向いている。また麓からは、影に隠れていて見つけられにくい。
「ここしかない、ここしかないな...」
恐らく後5時間くらいだ。厚く黒い雲が迫る中で1人何をしようか考えた。
風邪が強くなってきて辺りも暗くなり始める。まだタイムリミットまで時間がありそうだけども、急に眠気が襲ってくる。
多少は抗ってみたが結局は諦め、静かに目を瞑った。どうかこれで終わりにしてくれ。そう切に願いながら。
決意を固め直した俺は、粧子達が寝静まる昼の間に山小屋を脱走する計画を決行した。