第8話

文字数 1,554文字

 道場入門から、はや五年が経っていた。帯は三級紫。この年に空手が、四年後の東京オリンピックの正式種目として認められた。
 帯の色は流派にもよるが、七級白帯から始まり、六~五級の緑帯、四~三級が紫帯、そして二級、一級の茶帯へと昇級する。練習生の当面の目標は茶帯となる。基本をすべてマスターした茶帯一級ともなると、黒帯との組手練習にも気合が入る。初段黒帯は雲の上の存在だ。
 翔は志堂に入門の動機を打明け、貫手の教授を申し出た。最初志堂は、きょとんとした目をしたが、すぐに困惑したような笑みを浮かべた。
「あまり勧めたくはないが、どうしてもというなら、練習方法だけは教える」
「ありがとうございます。先生も以前は練習を?」
「ああ、俺かい。俺の師匠は鍛冶屋の金敷で手刀を鍛えていたような武道家だったので、貫手の鍛錬方法も一応は教わった。けど、俺が道場を引き継ぐあたりから空手もスポーツ化が進み、今やオリンピック競技にもなろうとしている。道場も年少者が増え、練習方法もそれなりに変わってきた」
 志堂が伝授してくれた貫手の鍛錬方法は、確かに特殊な世界だった。
 最初は、指全体の強化を図る。道場では握った拳を床に当てる拳立て伏せを行うが、家ではさらに指立て伏せを加える。最初は五本の指で、段階的に小指、親指を除き、最終的に貫手に使用する中三本の指で行なう。次は、乾燥砂、米、大豆をそれぞれ入れた三つの箱を用意し、順番に突きながら指先を鍛えていく。
 仕事の命でもある指を、生涯使うことがない武器としてなぜ鍛錬するのか? それは現代に生きる人間の根源に迫るような問いでもあった。
 毎年、大会が近づくと、翔が一番苦手な自由組手の練習が始まる。
 形が決められている約束組手とは違い、フェイント攻撃もあり実戦に近い。仲間同士でも闘争心がエスカレートし、時おり前歯が飛ぶような怪我も発生する。お互い過熱しないよう、志堂と武田が全体に目を光らせていた。
 息が上がり、ふらふらになった翔の前に武田が現れた。
「坂上、だめだ! 突っ立っちゃ。腰にためを作り、脇を締めろ」
「押忍!」翔は歯を食い縛り、重心を落した。
「ほら、早く打ち込んでこんかい!」
 武田が煽り立てる。翔は左足を大きく踏み出すと同時に、左上段追い突きに出た。
 その時、武田の右後足が床を離れたように見えた。直後に股間に激痛が走った。眼がひっくり返り視界が失せた。脳天を突き抜けるような痛みに床の上を転げ回る。呼吸が締めつけられ、意識が落ちる寸前、背中をド突く荒々しい力が伝わってきた。急に呼吸が戻り、視界が明るくなった。
「危なかったな――」志堂が、活を入れてくれたのだ。
 両肩から手を離した志堂が、安堵の顔で翔を覗き込んでいる。
 ふと見ると、腕組をした武田が悪びれることもなく見下ろしている。だがその目に、不思議と憎しみはなかった。
 翔は歯を食い縛り、立ち上がった。蹴りは、急所をわずかに逸れていた。だがダメージは大きく戦意はすでに残っていない。急に仕事のことが心配になり、道場を早引きした。
 足を引きずる家路の途中、割り切れないものが胸を突き上げてくる。三段黒帯の武田が、標的の水月を外すはずがない。ではなぜカウンターの蹴りを、故意に禁じ手となっている股間に炸裂させたのだろう……。空手はスポーツではないということを、武田は剃刀の刃のようなリスクを超えて教えてくれたのだろうか……。それとも単純に、急激な間合いの変化が生み出した偶然なのか。確かめようのない疑問。ただこの時、空手はまさに命のやり取りなのだということが身に刻まれた。武道に身を置く者として、一つ成長したことは確かだった。
 貫手の練習は、徐々に効果が現れてきた。指先が爪と一体に固まり、武器としての凄みを見せ始めていた。
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