第10話

文字数 1,886文字

 二級茶帯に昇級した年に、品川区立総合体育館の武道場で、空手道選手権大会が開催された。いずれも空手バカといわれる強者たちが、百畳近くある地下二階の剣道場に集まってきた。
 大会では、形競技と組手競技が行なわれる。
 形競技は、コートに二人の競技者が並び、審判から直前に言い渡された形を演じる。形の正確性に加え、気迫とパワーが審査される。二人が同時並行に演じると、優劣は露になる。場内に、選手の鋭い気合の余韻を残し、形競技が終了した。
 組手には個人戦と団体戦がある。いずれも選手は、一瞬の勝敗をかけコートに立つ。団体戦は各団体の名誉をかけた主力選手が出場し、一段と緊張が高まる。
 会場の隅では、選手たちが汗だくになり、無心に攻防の練習を繰り返している。恐怖心を払拭すると共に、身体を温め、怪我を防ぐ効果もある。
 選手の父兄たちが固唾を飲んで見守る中、年少部の組手競技が進んでいった。年少部の組手は、安全のため鉄板入り胴プロテクターを着ける。少年少女が、恐れずに戦いに挑む姿は、勝敗を越えた純粋な感動を覚える。
 怪我もなく年少の部が終了し、翔も出場する組手一般の部が始まった。
 この大会のルールは、防具は薄手の拳サポーターのみ。顔面突きのみ寸止めというルールはあるが、接近戦では負傷するケースもよくある。コーナーテーブルにはガーゼが山と積まれ、外科の救急体制を整えたもとで行なわれる。
 ルールがあるとはいえ、鍛え上げられた者同士の一騎打ちは、日常では経験しようのない恐怖といえる。対峙したとたん、攻撃ではなくどう防御するかが頭をよぎれば、その時点で勝敗は決まる。 
 トーナメント一回戦が始まった。翔の名前がアナウンスされた。コートは八メートル四方。綻びた紫帯を締め直し、中央に表示された試合開始線に立った。
 対戦相手は、武道で有名な仏教系大学の学生だった。少年のようなつるりとした顔。細い腰に巻かれた黒帯が太く見える。体格はむしろ自分の方がいい。
 号令がかかった。正直なところ、勝てる、と直感した。
 翔は相手の若い体をめがけ、一気に間合いを詰めた。上段追突き一本を狙い、コートの床を蹴る。だが、届かない。左右のコンビネーションから、渾身の中段逆突きを見舞うが結果は同じだ。十分な射程距離にいるはずの細い体に、左右の拳がかすりもしない。なぜだ? 標的へと向う捨て身の拳が、スローモーションのように感じる。それをかわす相手の瞬発力がそれを凌駕しているということか――。一瞬の焦り。相手の左正拳の残像が見えた。その瞬間、咽仏のわずか下に強烈な痛みが走った。顔面のみ寸止めルールのぎりぎりの急所。自分の動きが止まったことは、相手の踏み込みが瞬時に迫ってくることでわかった。カウンターの右中段逆突きが一度ならず相手の水月をとらえていることは確かだった。だが、相手の動きに変化はない。すでに破壊力を失った拳は、タイヤのように硬い腹筋には無力なのか。目にも留まらぬ上段突きが、執拗に喉笛を狙ってくる。激痛が痺れに変わった時だった。一瞬、狙い済ましたような左中段逆突きが、翔の脇腹に吸い込まれてくるのが見えた。肝臓への直撃が、体の芯を突き抜けるような衝撃へと爆発する。
 審判の「一本、それまで!」という宣告を、朦朧とした意識の中で聞いた。
「相手は二段、世界戦の選手だ。気を落すな」
 武田が身内の目で、肩を叩いてくれた。堰を切ったように、涙が溢れてきた。
 反則リスクのある顔面を避け、咽仏の破壊をぎりぎりに回避する、巧妙な拳だった。声帯のダメージは大きく、しばらく声が出なかった。
 組手個人戦は終盤へと向かった。
 真剣を交えるような武田の組手は他者を大きく引き離し、決勝戦まで進んだ。勝ち抜いてきた相手はK県警だった。実戦の血の雨を潜り抜けてきた猛者だ。
 勝負はあっけなく終わった。
 号令からすぐに間合いを詰めた武田が、鋭い中段前蹴りを放った。相手のガードが下がる。それを待っていたかのように、武田の蹴りが弧を描くように上方に舞った。フェイントをかけた、右上段回し蹴りが決まった瞬間だ。武田の虎趾(こし)が、県警のこめかみの一寸先で、ぴたりと止まっている。もし止まらなかったとすれば、顔面骨折の重傷は免れない。県警は、茫然と目を見開いている。紙一重の妙技。精密機械とも思われる正確な蹴りのコントロール。翔はこの時、武田に対するわだかまりが解けた。
 団体戦は、順に先鋒、次鋒、中堅、副将、大将の五人が戦う。
さすがに実戦部隊は粒ぞろいだった。上位は、機動隊、自衛隊、警察が占め、優勝は逆にK県警だった。
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