第12話

文字数 3,125文字

 一週間後、包帯姿で出社した翔を、みな心配そうに見つめている。社内に噂は広まっていたようだ。
 翔は早々総川に詫びた。正直に空手を始めた動機と、それを隠した事情を話した。
「話してくれても、みんな温かく見守ったと思う。それが仲間だから。でも密かに修行を積むというのも、わかるような気もする」 
 細谷が立ち上がり、近づいてきた。彼はただ哀しそうに、包帯の手を見つめている。ザクロのような傷を隠す白いベール。彼はその中に、バグと言う名の欠損を見ているのかもしれない。確かに、完全無欠なプログラムの世界とは、あまりにも落差のある光景には違いない。ふと、鬼原の訓示が脳裏をよぎった。今回の事故は、職場の文化に風穴を開けたことになるかもしれない。
 総川に促され、役員室に向かった。翔は覚悟を決め、ノックした。
 鬼原は右手に一瞥をくれると、すぐパソコンの画面に目を戻した。
 意外な言葉が吐き出された。
「小指の一本や二本、どうってことはない。例は悪いが、一本の欠損が逆に、人物を数倍大きく見せる世界もある」
 翔は、いつかの団塊の話を思い出した。鬼原が続けた。
「ところで、あの空手ノベルはどうなってる?」
「今回のこともあり、宙に浮いてるというか――」
「そうだろうな。もし完成させるとしたら、どのぐらいかかる?」
「星野さんに全面協力いただいたとしても、プロトタイプまで半年は――、いや、三か月で何とか」
「そうか、落ち着いたら、ぜひ完成してくれないか。あれは間違いなくものになる。今回の事故も、考えようによっては生きるかもしれない」
 翔は、指の怪我をして初めて、鬼原の言うことがわかってきたような気がした。ブレイクスルーのターゲットは、もしかしたら、自分自身なのかもしれない。
 ウィークリーミーティングの後だった。
「最近、飲み会やってないな。俺はちょっと遅れるが、例の店、予約してくれないか」
 珍しく鬼原が、デザイナーの瑞木の方を見た。
 その店は、瑞木と音月が女性同士で語らう場所らしく、翔は初めてだった。
 一風変わった店の雰囲気に、翔は目を見張った。居酒屋というより、イベントスタジオに近い。プロジェクションマッピングの効果で、全体がコバルトブルーの海の底のような錯覚を覚える。足元が静かに揺れ、時々陽光が差し込むような情景が体を包んでくる。内装壁、それにテーブルやいすが黒一色に統一されている。海底の神秘的な広がりを感じさせる。デザイナーやサウンドクリエイターはこのような世界で、感覚を研ぎ澄ましているに違いない。
 海底の一枚岩をあしらっているようなゴツい木製のテーブルに案内された。巨大な屋久杉の根元を、そのまま輪切りにしたような形だ。女性二人を含む六人がテーブルを囲んだ。メンバーの顔が、淡い光線に浮き沈みしている。皆、この幻想の世界に溶け込み、活き活きと談笑している。
「このお店、BGM、ちょっと変わってるでしょ」
 隣りの席になった音月が、翔に目を向けてきた。確かに、そう言われてみると、明瞭な音楽が流れているわけではない。不思議な効果音が、部屋全体を包み込んでいる。それは、風の音とも、波の音とも違う不思議な旋律だった。全身を透過していく静かなメロディーが、違う世界に誘うように流れている。
 メンバー同士の話が盛り上がっていた。音月が唐突に口を開いた。
「坂上さん、やっぱり空手やっていたのね――」
「え、何か、知っていたんですか?」
「無意識だと思うけど、たまにオッスって言ってましたよね。弟も道場に通ってるの……。シングルマザーなので、そのせいかいじめにあって。でも空手に救われたみたい」
「そうだったんだ……」翔は、音月にだけは本当のことを話さなければ、と思った。
「うちは家庭が崩壊していて、そのトラウマか自分の居場所がなく……。たった一つ、好きな小説を書くことで、自分を立て直したかった。この会社に拾われて、再びシナリオを書けるチャンスをもらった時は嬉しかったです。でも本当に再生するには、一度自分を打ち壊すしかない。その勇気がなくて……。そんな時、偶然空手に巡り会ったのです」
 時おり翔の横顔を見ながら聞いていた音月が、テーブルに視線を戻し、口を開いた。
「朝のスクランブル交差点で靴音を収録したことがあるの。勇ましい表情、完璧な衣装から生み出される軍隊のような連続音。けれど、後から音源を再生して気がついた。皆どこかに、心の空洞を抱えながら生きている。音源は、その哀しみまで正直に再現するの」
 音月の言葉は抽象的であるが、翔は何となく分かるような気がした。 
 音月が、明るく話題を変えた。
「空手道場の厳しさは弟からもよく聞いている。仕事を続けながらよくやったと思う。坂上さんはもう大丈夫。自信を持って空手ノベルのシナリオに取り組んで」
「それが、魂を揺さぶるようなエンディングに持っていくことが、なかなか……」
「あら、どうして?」音月が怪訝そうな目を向けた。
「今までにない本物の空手ノベルを作りたかった。そのために五年間頑張ってきた。でも、ゲームの世界がそれを望んでいるのか、分からなくなってきたんだ。本当の戦いのリアルをゲームの世界でどう表現するか、いまいち糸口がつかめなくて……」
「今の格闘ゲームは競争や闘争のアクションが主流。完璧な鎧が優劣を決める。それをもっと違う観点から表現する価値があると思う。勝敗の荒野だけを描くのではなく、明日の希望につながるような、人間の本当の戦いを。坂上さんの経験を活かして――」
「人間の本当の戦い――。いい言葉だね。そういう視点もありか……」
 ルールがあるにせよ、空手の試合は恐怖が伴う。根源に、生死をかけて戦う武術の側面があるからだろう。だが、古来、人間が歴史に残してきた戦いの中には死を恐れない戦いもあったようだ。
 例えば、中世ヨーロッパの決闘裁判のような、正義に命をかけた戦い。あるいは、インディアンが部族の運命をかけた戦闘。彼らが死を恐れなかったのはなぜか。人間が人間として生きるための戦いだったからではないだろうか。
 現代社会では、核兵器に象徴される近代戦争はSFの世界として描かれ、その実態を見ることはできない。だが我々は、大地が記憶した流血の歴史を忘れている。忘却のベールをはがせば、ゲルニカの阿鼻地獄がむき出しになる。それは無辜の民の血で描かれた、救いようのない光景だ。ただ、ゲルニカには、希望のランプが差し伸べられている。
 果たして、ゲルニカの絵画が現実のものとなった時、死屍累々の向こうに希望の光は見えるのだろうか。そのとき人は、何のために戦うのかを問われるだろう。その問いは同時に、人は何のために死ぬのかという命題をも突きつけてくる。
 この平和な世界でそれに答えることは難しい。だがゲームの中で、幾多の死線を乗り越えた空手家が、戦わずして勝つという究極の世界へと成長できる選択肢があれば、ささやかでも一つのヒントにはなりそうだ。
 これまで覆っていた霧が、晴れるような気がした。
「アドバイスありがとう! お陰で、今ちょっと閃いたことがある」
「良かった! 頑張ってくださいね。私もサウンドのほう、腕を振るうわよ」
 翔は、音月が自分の守護神のように思えた。
 現代社会の閉塞感。オブラートに包まれた社会現象。人々は、どこかに嘘があると知っている。一ミリの誤魔化しも利かない世界。それは空手の世界でこそ実現できる。翔は、それにかけて見ようと思った。
 本格的に空手ノベルゲームの製作が始まった。タイトルは「ブレイクスルー」
 暗く長いトンネルの先に、かすかな光が見えてきた。
                  (了)
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