第6話

文字数 1,675文字

 立ち方の基本を習い、闘うための体が、徐々にできつつあった。
 攻撃の前屈立ちと防御の後屈立ちを覚え、なかなかコツがつかめない騎馬立ちの練習をしていた時だった。志堂が近づいてきた。
「騎馬立ち、難しいでしょう。騎馬立ち三年って、私の師匠はよく言ってました。主に大腿部の鍛錬用ですが、熟練すると実戦にも十分役立ちます。と言うよりも、劣悪な足場ではこれなしでは戦えない」
 翔は「押忍!」と答えた。
「急流下りの船頭さんは、無意識の内にこの技を身に着けている。彼らは足の裏で平らな船板をつかんでいるのです」
 志堂がコツを教えてくれた。足は肩幅より広く、腰を落としやや内股。尻と脚の筋肉を内側に絞り込む。わずかに足裏が床をとらえる感触を覚えたが、確かに、難しい。
 立ち方が様になってきたころ、いよいよ本格的に突きと蹴りの練習が始まった。あの時の、空中貫手試割りで見た逆突きは、腰の回転、拳の捻りと引き手が難しかった。
「最初は誰でも脇が離れます。脇が甘いと簡単に防御される。拳を腰の回転に載せるように。引手は実戦では使いませんが、一撃必殺を旨とする空手には欠かせない鍛錬です」
 ふと見ると、志堂の道着の脇は左右とも擦り切れ、肌が覗いていた。
 引手とは、突くと同時に反対の拳を腰の位置まで引くことを言う。反作用により拳にパワーを乗せることができる。突きには追突きとも呼ばれる順突きと逆突きがある。一歩前に出した足と同じ側の拳で突くのが順突きで、反対側の拳で突くのを逆突きという。一撃必殺の拳は、極限まで鍛錬された逆突きから生み出されるという。
 拳のスピードアップは永遠の課題だ。達人は、上半身裸の正拳で、三十センチ離れた蝋燭の炎を消し去るという。一回の練習で、五百本は突く。道着の袖口がパシッという乾いた音を出すようになるには、最低五万本は突かなければならない。いずれも、引手の熟達が重要な鍵となる。
 平行して蹴りの練習も行なわれた。
 蹴りも、基本の前蹴りから、回し蹴り、横蹴り、後蹴りと続く。翔は初めて、素足の蹴りの難しさを知った。
「前蹴りと回し蹴りは、指の骨折を防ぐため虎趾(こし)を当てるように」
 志堂が足の指をすべて立て、上足底とも言われる指の付け根の部分を示した。
 すべての蹴りを、やや腰を落とした閉足立ちで行なう。翔はしばらく、足が吊って眠れない夜が続いた。
 基本技を実戦力へと鍛錬する異動稽古が様になってきた時だった。
「坂上、おまえ、何のために空手やってるんだ?」
「何のため――。強くなるため、というか……」
「強くなるため、ほぉー、それで何のために強くなりたいの?」
 武田が翔の足元に目を落とした。その顔が少し笑っているように見えた。その時だった。突然武田の拳が翔の顔面に飛んできた。とっさに顔を逸らそうとしたが間に合わなかった。武田の拳が翔の鼻先でピタリと止まっている。
「常在戦場という言葉を知っているか?」
「ああ、はい、何となく――」
 武田が両手をだらりと下げた。目は半眼、隙だらけに見える。
「さあ、本気で顔面を突いてこい――。こなければ、こちらからいく」
 翔は、意を決し、上段突きに出た。拳が武田の顔面を撃ち抜いた、はずだった。が、そこに武田の存在はなかった。一瞬早く、懐に入った武田の拳が、紙一重で翔のこめかみをとらえていた。何回やっても同じだった。
「後の先と言って、薩摩示現流真剣に対抗するために生み出された裏技だ。死を超越し、無の境地に達した時に初めてなせる技。武道にはまだこの先に、戦わずして勝つという究極の境地がある」
 武田がそれだけを言うと、踵を返した。
 武田はその後も、ズキリとする言葉を投げてきた。それは翔の未熟な技を指摘するというよりも、根には、翔の空手に対する意識について、何かを悟らせるように思えた。
 確かに、翔の目的は武道の本質からは外れているのかもしれない。それでも翔は、アパートの部屋で、ひたすら逆突きと指立て伏せを続けた。あの貫手に少しでも近づくことが、自分の人生に立ちふさがる壁を、貫いていく力になるような気がした。
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