第11話

文字数 2,412文字

 大会が一時間ほど早く終了し、追加イベントとして試割りを行なうことになった。
「板は五十枚準備しております。大いに参加してください」進行係の志堂が、翔に意味ありげな視線を投げた。「種目は、正拳と裏拳。もし希望者があれば貫手まで」 
 通常は行なわない貫手は、大会役員の志堂が提案してくれたに違いない。千載一遇のチャンスではあるが、突然の話に怖気づき、翔は逡巡した。
 試割り板のサイズは、縦二十一センチ、横三十センチ。厚さは十二ミリから二十四ミリまで四種類がある。
 二人の黒帯が腰を落し、十五ミリ二枚を重ねた板の両端を支える。各地から集まってきた参加者が、順番に挑み始めた。
 最後に、道着にあの仏教系大学名が刺繍された中年男が進み出た。新しい緑帯が、せり出した腹を下から支えている。どこか学者っぽい男は、この大学の先生なのだろう。
 先生が、板の前で重心を落とし、構えた。顔から柔和な表情は消えている。丸みを帯びた拳で、念入りに当たりを見ている。
 野太い気合を発し、全身をぶつけるように拳を突き出した。だが、大方の期待を裏切り、拳は、まな板に骨がぶつかるような鈍い音を残したまま、止まった。
 会場から小さな悲鳴が上がった。翔も、自分の拳がハンマーで打ち降ろされるような痛みが伝わってきた。
 だが、それでは終わらなかった。先生は歯を食いしばり、二度、三度と拳を打ちつけている。 すでに腰の回転は見られない。
 学生の一人が、「先生!」という悲痛な声を上げ、止めに入った。
 血を拭った拳には、白いものが覗いている。それでも先生は、引き下がらなかった。学生たちが話し合いを始めた。主将が遠慮がちに先生の耳に何かを囁いた。板が一枚外された。先生が最後の一撃にトライする。それにしても凄まじい闘志だ。会場が静まり返った。
 先生は会場に一礼すると、板に向って行った。拳を腰に構え、呼吸を整えている。全身から力みが消えているように見えた。
 最初よりやや高い気合が響いた。その瞬間、悲壮な拳は、二つに割れた板の向こうにあった。 会場から、割れるような拍手が響いた。
 翔はこの時、自分も貫手をやってみようと、決心した。
 貫手の試割りも、通常は固定された板で行われる。
 志堂は最初、空中の試割りに難色を示した。宙に浮く板の貫手は前例がないので、失敗のリスクがわからないという。だがいずれにしても、失敗すれば無事に済まないことは確かだ。志堂は、最後に聞き容れてくれた。
「それでは貫手による試割りを行ないます。挑戦者は一人。坂上翔君。空中試割りのため、準備にもう少し時間をください」
 会場にどよめきが起こった。帰り支度を始めた観客が席に戻った。
 武田が背後から、翔の肩を叩いてきた。
「坂上、おまえ貫手をやっていたのか。それにしても空中試割りとはな――」
 武田が、翔の右手をつかみ、じっと見ながら言った。
「知っていると思うが、貫手で重要なのは中三本を支える小指だ。だから四本貫手という呼び方もある。その四本を、最後に親指で締めるんだ。早く言えば指の一体化だ」
中三本の指を集中的に鍛えてきた翔には意外な言葉だった。確かにそうすると、指全体の強度が増したように感じる。鉈の刀身のように見えたあの時の空手家の貫手が、一瞬、脳裏をよぎった。武田が続ける。
「それと、狙うのは板の裏一寸だ。おまえの逆突きなら必ず割れる。ただ貫手は、成功する以外に生き残る道はないということも忘れるな。元々、生死を懸けた極限で使う技だ」
 翔は「押忍!」とだけ応え、ただ無心で、ステージに向った。
 あの時と同じ仕掛けが組まれていた。翔は、会場に一礼した。
 場内が静まり返った。翔は両拳を構えると同時に、板に向きをかえた。板は、見えない風にかすかに揺れている。張り詰めた静寂の中を、重心を落とし、摺り足で標的に迫った。貫手を半身逆突きに構え、呼吸を整える。わずかでも力みがあると、板は割れない。半眼の目で心を静める。聞こえてくるのは自分の息吹だけとなった。
 すべての想念が消え、板が静止した。
 その瞬間、気合もろとも全身のパワーを炸裂させた。指が、板を突き抜けていく手応えがあった。板の半分がネットへと吸い込まれていく。残りの半分が、跳ね上がるように、目の前で大きく揺れていた。ついに、やったのだ。
 だが会場は、賞賛の渦ではなく、どよめきと悲鳴に包まれた。そのわけがすぐにわかった。引き手を取った道着が見る見る朱に染まっていく。
 よく見ると、小指の先端から血が噴き出している。アドレナリンのせいか、痛みは感じない。 何が起きたのか分からない翔は、右手を庇い、その場にひざまずいた。
 志堂が駆け寄ってきた。武田が、ネットに絡まった半分の板を持ってきた。割れ目のささくれが血に染まっている。
「割れた瞬間、板の割れ目が、小指に引っかかったんだ。危なかった、小指ごと持って行かれなくて――」
 確かに、武田の指導がなければ、本当に小指を失っていたかもしれない。だが翔は、意外と醒めていた。心のどこかで、覚悟していたことなのかもしれない。
 救急コーナーの看護師に付き添われ、医務室に移動した。
 専門の医療担当者による救急処置が始まった。
「幸い動脈の切断は避けられたようね。腱も大丈夫でしょう。ただ、神経が心配です。近くの外科医院を紹介しますので、すぐに受診してください」
 タクシーの後部座席――。安堵のせいか、急に激痛が襲ってきた。
「珍しい傷ですね。縫合は難しいので、創傷被覆材を処置しておきます。神経に損傷がなかったのは奇跡的です。一週間は安静です。怪我には十分注意してくださいよ」
 誠実そうな医者が、翔の道着をチラリと見た。
 翔の功績は残ったが、今後大会では、固定、空中を問わず、貫手試割りは行わないことになった。だが翔は、この試割りで大切なことを学んだ。標的は、見えない壁の向こうにあるということを。
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