第4話

文字数 1,491文字

 二週間後の金曜日、翔は腹を決め、道場に向った。
 翔は目を見張った。新しい道着と白帯が用意されていた。
「必ず来ると思ってました」志堂が、汗に光る顔を綻ばせた。「帯の締め方を教えます。一緒に行きましょう」
 志堂が、更衣室に案内してくれた。
 道着を身につけ、帯を締めるということが、こんなに難しいことだとは知らなかった。ここからすでに、空手道は始まっていた。
 年少部が引き上げ、一般の部に移った。全員が一列になり、志堂に向って正座した。 
「新しい練習生を紹介する。坂上さんだ」
 志堂が、翔に視線を向ける。すでに笑顔は消え、師範としての威厳が現れていた。黙想から礼に入る。
 準備運動は他の練習生と一緒にこなすが、白帯の中でも本当の新米は、道場の隅で立ち方の練習と、その場突きを行う。志堂が人体の急所から始まり、正拳の握り方、手足の攻撃部位と防御部位、生命に関わる禁じ手など、空手の基本の基本を教えてくれた。
 その中に、貫手という言葉が出てきた時だった。つい、翔の口が滑った。
「貫手って、どうやって練習するのですか?」
「え、坂上君、貫手、知ってるの?」
「ああ、いえ、以前、空手漫画で見ただけで――」
「ああ、漫画には派手に描いてるけど、あれは禁じ手なんでこの道場では教えていない。流派によっては今でも指立て伏せをやっているらしいが、先ずは正拳を鍛えてください」
 小指から順に握り、最後に親指で締める。中に空隙を作らないことが拳の威力を増すと共に手の負傷を防ぐ。空手の正拳の意味を、志堂は自分の岩のような手で教えてくれた。 
「最初はきざみ突きから。ボクシングで言えばジャブ。肩の力を抜いて、当たる瞬間にひねるように――」
 志堂の動きを見ながら、ただひたすら左右の正拳を繰り出す。真似ようと思うと、今度はスピードが乗らない。これまで経験したどのスポーツにもない、特殊な動きだった。
 志堂が続ける。
「日常で使う筋肉を表とすると、武道に必要な筋肉は裏にあります。戦いで優劣を決するのは文明で忘れ去った力です。背筋の瞬発力がなければ顔面の攻撃をかわすことはできません。形の練習にはすべて、その目的が秘められております」
「押す!(おっす)」と、返してはみたものの、まだ本当の意味合いは分からなかった。この世界は、何を言われても返す言葉は「押忍」だけなのだ。
 練習の終わりには、再び全員が一列になり、順番に気合を入れながら正拳十本突きを延々と繰り返す。締めは、正拳の拳頭(人差し指と中指のつけ根部分)を床に当てる拳立て伏せだ。拳の痛みに震えながら、何とか一回だけはできた。電車のつり革で見かける拳ダコの意味がやっと分かった。
 仕事や自分のこと、全ての雑念は汗となって、道着に吸い込まれていった。
 終了の正座、師範代から「黙想!」の号令がかかる。静かな呼吸が運ぶ無我の境地。日常にはあり得ない貴重なひとときだった。三回の礼を終わらせた時は、心が洗われ、比叡山の修行僧にでもなった気持ちになるのが不思議だった。
 帰り際、志堂が声をかけてきた。
「基本が身に着くまで、週一回だけでも来てください。仕事を持っている人は、無理しないで継続がすることが大事です」
 道場の帰り道、人影のない埠頭の片隅で指立て伏せをやってみた。それは想像を絶するほどきつかった。一回だけで、五本の指が折れそうになる。二回と満足にはできなかった。だが、埠頭で揺らめく黒い光の中から、挫折とはまるで逆の、燃えるような挑戦意欲が湧き上がってきた。
 それから毎週金曜日、頭脳の限界に挑戦する日常を縫って、ひたすら肉体の汗を流す道場の往復が始まった。
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