第1話

文字数 1,039文字

 空手家が現れ、正面に一礼した。
 黒帯は磨り切れ、生地が白くむき出している。無表情な空手家の歳は読めない。顔幅と首の太さがほぼ同じで、鍛え上げられた肉体を彷彿とさせる。
 壇上の右側の、高い脚立の先端に括りつけられた角材から一本の糸が下がり、みぞおちの高さに一枚の板が吊るされている。見えない力で、板は静かに回転している。
「それでは演武会の最後となります。我が空手部OBによる、空中の貫手試割(ぬきてしわ)りです。貫手とは、極限まで鍛え上げた指先で急所を攻撃する技で、宙に浮いた試割り板を真っ二つにします」
 会場からどよめきが起こった。
 空手家が、腰を落とし、摺り足で板の前に進み出た。場内が水を打ったように静まり返った。空手着の擦れる音だけが、微かに響く。気負いは見られない。やや斜めに構え、呼吸を整えている。指を揃え、腰に構えた貫手は、まるで鉈の刀身のように見える。
 板の動きが止まった時だった。一瞬、気合が空気を引き裂き、板が割れる乾いた音が響いた。 空手家の右手は残像を残し、気がついた時は元の位置に戻されていた。割れた瞬間を見た者はいないだろう。だがネットに絡んだ板は、確かに、真っ二つに割れていた。
 翔(しょう)の頭の中は真白になった。
 空手家の前で、主が消えた糸だけが、何もなかったように揺れている。コンピューターグラフィックではありふれた映像だ。だがこれは、紛れもない現実だ。
 空手家は一礼を残し、袖(そで)に去った。ざわめきの気配だけが、会場に漂った。再び司会者が現れた。
「ご覧になった皆様、素人の方も、そうでない方も、この空中の貫手試割りだけは真似をしないようお願いいたします」
 こんな神業は、誰も真似ができないだろうと思った。翔は確かに見た。あの時、空手家の全身から何かが走ったのを。稲妻のような何かが――言葉では表現できないものが、頭蓋を貫き、脳裏に刻まれた。
 演武者が勢揃いし、司会者が終了を告げた。会場にほっとした空気が流れ、観客が立ち上がり始めた。あっという間の一時間だった。
 文字通り、手に汗握る空手の演武会が終わった。翔は最後の、空中貫手試割りが、強烈にまぶたに焼きついた。 
 非日常の衝撃から一歩外に出ると、そこもまた別世界だった。芝生を切り取る広い通路の両脇には白いテントが並び、様々なクラブや愛好会のイベントが大学祭を盛り上げている。自分には縁のなかった世界。三十路の目には眩しすぎる学生たちの賑わいを眺め、翔は大学のキャンパスを後にした。
ワンクリックで応援できます。
(ログインが必要です)

登場人物紹介

登場人物はありません

ビューワー設定

文字サイズ
  • 特大
背景色
  • 生成り
  • 水色
フォント
  • 明朝
  • ゴシック
組み方向
  • 横組み
  • 縦組み