第3話

文字数 2,204文字

 翔は、北品川駅近くの行きつけのラーメン屋に入った。
 帰り際、ふと、カウンターの隅の「空手練習生募集」のパンフレットが目についた。あの時の、空中貫手試割りの光景が脳裏によみがえった。吸い寄せられるように手を伸ばす。
「お客さん、空手に興味あるのかい。それとも、もうすでにやってるのかな?」
 マスターが、カウンターの向こうで洗いものをしながら声をかけてきた。
「あぁ、いえいえ、ちょっと興味があったものですから」
 翔はあわてて、顔の前で手をひらひらさせた。
「あ、そう。その道場、俺の息子がやってるんだ。港南口から歩いて十五分ぐらいかな。月、水、金。見学は自由なんで、どうぞのぞいてみてください」
 翔は、マスターの笑顔に目で答え、パンフレットを片手に店を出た。
 翌週の金曜日、朝から空手のことが脳裏の片隅で点滅し続けていた。見学自由の言葉につられ、パンフレットを頼りに道場に向った。
 その道場は、高浜運河沿いに立ち並ぶ高層マンションの裏の、古い倉庫やアパートが並ぶ一角にあった。
 鉄骨造りの、一階が建設資材置き場になっており、二階の壁に「光心館空手道場」とライトアップされた看板が掲げられている。入り口に見学自由の張り紙がある。
 鋭い気合が窓を突き破る勢いで聞こえてくる。恐る恐る狭い階段を上っていくと、広く開放的な道場が目に飛び込んできた。壁ぎわには鉄アレイやバーベルなどの様々な鍛錬用具が置いてある。コーナーには黒光りのする大きな革のサンドバッグが吊るされていた。
 正面の壁には大きな鏡があり、その上には神棚が据え付けられている。その横には、墨で書かれた道場訓が張り出され、何やら厳かな文字が並んでいる。
 中央で形の練習が行なわれていた。翔は。壁際に正座した。
 一団の、一糸乱れぬ素早い動きに翔は目を見張った。純白をまとった肉体が、所狭しと躍動する。練習生の真剣な目に迷いはない。皆、何か確かなものを、追い求めている。
 間もなく小休止となった。年少部が引き上げて行った。
 号令をかけていた丸顔の師範らしき男が近づいてきた。背丈は翔とさほど変わりはないが、分厚い胸が体を一回り大きく見せている。
「もしかして、龍門店のマスターと話した人?」
 汗に光る顔に、笑みを浮かべている。
「ああ、そうです――」
 翔は、話しが早すぎることに一瞬戸惑った。
「私、この道場を主催している志堂といいます。正座も辛いでしょうから、一番端で一緒に体を動かしてみましょうか。いいですよ、そのままの服装で」
 志堂が、翔のゆるめのチノパン姿をちらりと見て、踵を返した。
 翔は、いつの間にか志堂のペースに乗せられていることに不思議と抵抗を感じなかった。
 二十人ほどの練習生が、大きな神棚を背にした志堂に向って、横一列に正座している。右端に並んだ。
 左端の、黒帯が綻びた厳つい顔の男が、ひと膝にじり出た。師範代のようだ。重厚な声が、磨き上げられた床を走った。
「黙想!」……、約十秒後に「正面に礼、先生に礼、お互いに礼!」
 師範代の号令に合わせ、全員が正座のまま三回、床に額が触れんばかりにお辞儀をする。不思議だった。体の芯から万物への感謝の念が湧き出てくる。これまでにはなかった体験だ。
 凛とした透明な空間。日々パソコンの世界とは何かが違う。正座の目線にあるすべてのものが、清々しく翔を包み込んでくる。 
 志堂の号令で準備運動が始まった。普段意識したこともない筋肉が伸ばされ、全身の血が音を立てて流れ出すような感触を覚える。
 だが、まったく太刀打ちの出来ない局面に差しかかった。相撲でも必須といわれる股割りだ。 さすがに志堂は余裕で股を百八十度に割り、床に載せたあごから練習生を見渡している。翔は、九十度ほどに、それでもやっと両脚を開いた。脚の間に上半身を倒そうとするが、わずかに傾いただけで、あとは頑として動かない。股間の腱が切れそうになるほど痛い。
 左側を盗み見る。ほぼ全員が頭部を床につけている。翔は歯を食いしばり、床と頭部の距離を縮めようとした。屈辱の脂汗だけが滴った。
「これから移動稽古に入りますが、今日はこのぐらいにしておいたほうが――これ入門届出書です。次回提出してください」
「はあ、今日は見学ということで――」
 翔は驚いて、志堂の目を見た。
「大丈夫、十分やっていけます。なかなか筋はいいですよ」志堂が断る余地のない笑顔を見せる。「道場を見学に来る方は、心の奥では入門を決めているものです。でも余りにも世界が違いすぎて自分から決断できる人は稀です。この世界は見学イコール入門なのです」
 確かにそのとおりだった。志堂が翔の手をチラリと見て、続けた。
「パソコンを使うお仕事のようですが、指を怪我する人がけっこうおりますので、それだけは気をつけて」
 翔はハッとして、自分の指を見た。オフィスでは有能に見える手が、道場ではおそろしく華奢に見えた。
 アパートに戻り、重くなった衣服をすべて取り替える。こんなに汗をかいたのは何年ぶりだろう。         
 仕事では意外な事が起こった。細胞の隅々まで水分を絞り切った結果、全身がリセットされたような爽快感がある。ただ、心配もよぎった。もし怪我でもすれば、明日から飯は食えなくなる。
 だが、この世界にこそ、自分がゲームクリエイターとして仕事を続けて行くためのエネルギーが秘められているように思えた。

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