第12話 岬にて

文字数 3,505文字

 岬の先端に立つと、身の引き締まる思いがした。
 夜明け前のハヌーン岬。辺りはひっそりとした暗闇に包まれている。眼前には壮麗なインド洋の海が広がっているはず。しかし今はまだ、微かに聞こえる波音だけがその存在を示すにとどまる。
 思いの外に風が強い。この時間、風は陸から海に向かって絶えることなく吹いている。その勢いたるや、俺を吹き飛ばして海に叩き落さんとするほどだ。半分寝ぼけていた頭はすっかり覚醒した。
 腰元の鞘からカットラスを引き抜く。カットラスは近世の時代までドーグマン戦士の正式な武装だった。右手にそれを持ち、剣先を前方に突き出す。左手は背中に当てる。膝に力を入れ過ぎないように注意して脚を前後に開く。
 深呼吸。神経を研ぎ澄ます。
 ――ビュン!
 スナップを利かせて下段から左斜め上に剣を振るう。風を切る音がうなりを上げる。間を置かずに前へ移動しながら、連続で斬撃を重ねる。
 足の踏み込み、剣先の軌道、いずれも悪くない。最初はただ歩いたり走ったりすることにさえ違和感があった機械の身体だが、ようやく慣れてきた。今はもう、生身の頃とまったく遜色なく剣を振るえる。
 ひと通りの基本動作が終了。ここからはさらに高度な剣技を扱っていく。身体が徐々に発熱していくのを感じた。

 毎日、夜明け前に武術の鍛練に励むべし。
 ドーグマンの規範の中でもとりわけ有名な一条だ。俺のような戦士はもちろん、そうでない者も含めて、メンバー全員に原則実施が義務付けられている。俺がこんな早い時間に岬にやって来たのはこのためだ。
 この規範はドーグマン草創期における先人たちの習慣が元になっている。
 ドーグマンが権力者打倒を目指すようになってからというもの、各地の政権や部族は彼らを恐れて監視の目を光らせ始めた。武器を携えている者を見つけては、ドーグマン関係者ではないかと容疑を掛けたのだ。その結果、先人たちは白昼堂々と武術演習ができなくなり、腕前は日に日に落ちるばかりとなった。苦肉の策として彼らが考え付いたのが、皆がまだ寝静まっている夜明け前に密かに鍛練することだった。その後この習慣は、メンバーが規則正しい生活を送る上でも有益だという理由で規範化され、今日に至るまで受け継がれている。
 実は組織の中ではこの規範を廃止しようという動きがあった。火器が発達した現代において、武術の鍛練をしても実際の戦闘には何の役にも立たないということらしい。いや、こんなふうに伝聞調で語るのは良くないな。何を隠そう、俺自身がそう主張してきたのだから。だが、今はこの規範のありがたみをしみじみと感じている。
 アンドロイドとして蘇った俺は、現在はソマリアの北部辺境に身を隠し、日々を粗末な小屋で過ごしながらアレカシの動向を探っている。ドーグマンの組織とは一切連絡を取っていない。一時は自分の生存を組織に伝えようとしたが、思いとどまった。今の俺の身体はそれ自体が対アレカシ戦における切り札だ。機械化により飛躍的に向上した戦闘能力は、アレカシに匹敵するどころか、それすら上回るだろう。このアドバンテージを最大限活用するには、奴らと対決する直前まで俺の生存を隠し通さなければならない。奴らに少しでも情報が漏れたら、何かしらの策を講じられる可能性があるからだ。俺は人や社会との接触を極力避けるようになった。それは俺にとって古巣の組織に対してであっても例外ではなかった。
 こうした生活は予想以上に堪えた。アレカシの動向を探ると言っても、ドーグマンの諜報網を利用できないため、情報はどうしても断片的なものに限られる。それらから奴らの行動を予測するのは至難の業だ。南アフリカから帰ってきた後、俺はまだ一度も奴らに相見えていない。一方で、戦争の形勢が確実にケニア側に傾いたのは分かった。二週間ほど前、ケニアはとうとうソマリアへと侵攻し、モガディシュやキスマヨといったドーグマンの拠点を次々に陥落させていった。既にソマリア南部のほとんどの地域からドーグマンは撤退している。ドーグマンが劣勢に立たされているのに、俺は救援に向かえない。俺は孤独感と無力感に苛まれながら、それでもドーグマンの一員であることを自負して、剣技の鍛練を続けていた。
 そしてあるとき、俺は天啓の如く悟ったのだ。この瞬間が俺にとって救いとなっていることに。夜明け前に遮二無二剣を振るっているときだけは、俺は他のメンバーたちと辛苦を共にできる。彼らも俺と同じように睡魔を払って寝床を出て、汗水を垂らしながら武器を振るっているはずだ。俺は今、世界中のメンバーと心を一にしていることをはっきりと感じられる。この確信こそが俺に無限の活力を与えてくれるのだ。たとえかつての仲間に裏切られたとしても、そして、独りアンドロイドとなって組織から離れているとしても、俺にはまだ同志がいる。俺は決して独りではないのだ。

 最後に締めの一撃として、跳躍して身体に捻りを加えながら剣を上段から一気に振り下ろす。風圧で土煙がブワッと舞い上がった。気付けば息が上がり、身体のあちこちの通気口からは熱気が排出されていた。
 呼吸を整えていると、彼方の水平線から光が差し込んできた。今までの暗闇が嘘のように晴れていく。姿を現した海原は水面で光を反射させ、コバルトブルーに輝き出す。
 海はいい。果てしなく広がる大海原を眺めていると、この世界には本来何も境界線がないことを実感する。この海はドーグマンの理想を体現している。愚劣な権力者どもが滅び去った社会とはきっとこの海のようなものなのだろう。
 そのときである。はるか遠くの上空を一機の輸送機が飛行しているのが目に入った。輸送機はここから見ても分かるほどの高速で移動していて、まもなく俺の視界から消えた。あの輸送機はまさか……。
「おーい、だんなー」
 間延びした声が俺を呼ぶ。一人の人間が岬の坂道を駆け足で登って来た。俺のもとに辿り着くと、そいつは息切れもせずに話し出す。
「旦那、見張りに出ている仲間からさっき連絡があった。ナイロビの空港から輸送機が出発したらしい。乗り込んでいるのはたぶんアレカシだろうってさ」
 この者はドーグマンの兵士ではない。傭兵だ。名前はジョージ。組織を離れて単独行動となった俺は、新たな労働力として傭兵を十数人ほど雇い入れたのだ。ジョージは彼らの中で最年長であり、まとめ役をしてもらっている。
「報告ご苦労。今しがた、この岬からも輸送機が北東の方角に飛んでいくのが見えたところだ」
「そうだったのか。なら話は早いな。……にしても、北東の方角か。ここからその方角にあるって言えばソコトラ諸島か? 一体何しに行ったんだ」
 ジョージはまるで見当もつかないというふうに疑問を口にする。
「何を馬鹿なことを。ソコトラ諸島にある場所と言ったら……」
 そこで俺ははたと気付く。そうか、こいつは知らなくて当然なのだったな。ついドーグマンの兵士を相手にしているつもりで話してしまった。気を取り直して説明する。
「奴らの向かった先はおそらく第十四基地。古くからドーグマンがソコトラ諸島に構えている秘密基地だ。アレカシはどこかからその所在を知って、これから攻め込みに行くのだろうな」
「おいおい、だとしたら一刻も早く俺たちも向かわないとやばいんじゃないか」
 そう言ってジョージは俺を急かすが、俺はむしろ内心ほくそ笑んでいた。
 第十四基地はドーグマンの秘密基地の中では最大規模を誇っている。警備に当たる人員も膨大な数に上る。さしものアレカシも攻略には多大な時間を強いられよう。ただちに出撃すれば、奴らが攻略にてこずっている間に俺たちが追い付く可能性は十分にある。
「よし、ジョージ、出撃の準備だ。今回こそはアレカシと直接対決することになろう。俺の用意した兵器は持てるだけ持っていけ。お前たちの腕にも期待しているからな」
「任せとけよ。報酬分はきっちり働かせてもらうさ」
 ジョージは来た時と変わらない軽快な足運びで走り去っていった。
 俺は北東の方角に再び目を向ける。その方角に肉眼ではさしたるものは何も見えない。だが俺にはソコトラ諸島の姿が、もっと言えば輸送機に乗って島に急行している四色のスーツの姿が、ありありと想像できた。
 ――待っていろよ、アレカシ。俺はもうかつての俺ではないぞ。貴様らに味わわされた屈辱の数々、百万倍にでもしてその身に叩き返してくれるわ!
 身体の通気口からは、火傷(やけど)するような熱気がなおも溢れ出ていた。
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