第8話

文字数 3,915文字




〈竜宮島〉


扉を開けると隣の島が少し見えた。遠くに、益々遠くに。それはなぜか少しずつ離れていく。今日の遠さは、風の速度で言えば十段階の七。ということは、今日の天気は曇りのち雨。明日は?扉が震え、扉にしか分からない計算を始めた。
しかし私は扉を無視して海へ飛び込み、泳ぎ始める。天気予報は無視して。あの島へ向かって泳ぐ。まだ泳ぎ切れたことはないけど。私は素晴らしい流線形の身体をしていて、立派な尾もあるのに、人間のような手足が邪魔をして、最後まで泳ぎ切れないのだと思う。
姉たちは私が金属の箱に入れられて、この海に落とされたのだと言う。天上から、晴天の日に、海がこの上なく青かった時に。その箱がピカピカの美しい箱だったらよかったものを。姉たちが言うにはひどく傷ついて錆びだらけの、不気味な箱だったと言う。そしてその箱は私を海に投げ出すと、すぐに海の彼方へ行ってしまったと言う。だからその箱を見たのは姉たちだけ。私は気絶していたらしい。まるで死人のような青い顔色で。身体も箱と同じように傷ついていたと。だから私の顔が青いのは、一度あの時に死んだからだと姉たちは言う。それならば天気の良い日、私の顔が空よりも美しいブルーになるのはなぜ?それに私に付いている手と足はどこから来たの?死に損なった魚に与えられる罰なの?
これは決して私のものじゃない。なぜなら、これは私の意志などとは関係なく、何かを掴みたがるから。何かを捕まえたがるから。それも私にはいらないものなのに。そしてぶちたがる。蹴とばしたがる。姉たちにさえ。まあ、姉たちはお喋りで私をいつも負かせては、私に腹を立てさせるのだけれど。でも、時々姉たちを抱きしめたくなるのもこの手足だ。しかし姉たちは抱きしめさせてくれない。私だってそんなことはわかっている。どの魚だって抱き合ったりしていないし抱きしめてもらいたがってもいない。
そんな時竜宮島から人間の男が二人流されて来た。私は死体だと思ったが。姉たちによればまだ死んではいなくて、ただ気を失っているだけだと言う。「そう、お前もこんな様子だった」と。そして私にそのうちの一人をくれた。「お前の好きなようにしていい」と言って。なぜなら竜宮島から流れて来るものはみな、私たちへと送られたプレゼントなのだそうだ。この海の者は大昔から、そうしてきたし、そもそもこの海はそれらのプレゼントを受け取る為にあるだという。もしかして私もプレゼントだったのだろうか。しかし姉たちは人間になど興味がない。だからとてもがっかりしていた。だからもう一人の男はそのまま海へ流してしまった。それを見て私はなぜか泣いた。それを見た姉たちは驚いて、「目から水が流れるのを初めて見た」と言った。そして私に残った男をくれたのだ。しかしその時一番上の姉が私に言った。「いいかい この男を起こしちゃいけないよ。
ここで人間が何かを見ちゃいけないんだ。お前の姿も、見せちゃならない。人間がここで何かを見るのは悪い事なんだよ。でないと良くない事が起こるからね。分かったかい」私は「はい、わかりました」と答えた。しかし余り分かってはいなかった。だから男を連れて竜宮島へ行きたかった。姉たちがそこは人間の島で男はそこから来たのだろうと言っていたのだ。そこから来たのなら、そこへ行けば男が何かわかるはずだと思った。しかし竜宮島はあの隣の島よりずっと遠い。それでも私は知りたかった。途中でもそれなりに何かわかるのではないか。とにかく隣の島を目指そう。
なぜ男と私は似ているのだろうか。男が来てから姉たちは私に冷たくなった。魚たちも近づかなくなった。海の仲間がだんだん私から離れていく。きっと皆気付いたのだ。私が人間に似ていると。「私は魚だろうか 人間だろうか」海に向かってそう叫んだ時、海上を二つの車輪が走って来るのが見えた。一つは途中で別れて行った。私は車輪があの男を、追って行くのだと思った。そして姉たちが流した男を捜し出して乗せるのだと。残った車輪は私に向き合った。「そうだ おいで こっちだよ。もう一人の男はここだよ。私が抱えている。手があるからね。こうして岩場に立って待っているよ。足があるからね。こうすると男がよく見えるだろ?少しの間なら男を抱えて立っていられる。私の息が続く間なら。何分か。でも、苦しくなってきた。立っていると息が詰まるんだ。だから 早く来い」その時男が気付いた。車輪を見たと思う。怖がっているようだ。私にすがりついてきた。私は初めて何か確実なものを抱きしめた。するとどこからか力が湧いて来るような気がした。足も強くなって自然に男の足に絡まった。そして胸が熱くなった。しかし私を見た男からはすぐに力が抜けていった。私の痺れかけていた手足からも途端に力が抜けていった。死んでしまったのだろうか。私は悲鳴を上げた。そして何事かとやって来た姉たちに男が死んだかもしれないと言った。私はとても怖かったのだ。しかし姉には「お前はおかしくなったのか?人間の男が死んだくらいで大騒ぎをして。」と言われた。そして「死んだ男を離すんだ。腐って臭くなると海を穢すから、すぐに浜に埋めるんだよ」と。「お前は掘ることができるだろう?」この余計な手と足の事を言っているのだと分かった。
その日、私は姉たちに言われた通り、浜へ行き、手で砂を掘って男を埋めた。思ったより楽に掘ることができた。そして男を中に入れ寝かせると上から砂をかけた。しかし目だけ砂から出しておいた。男が気付いてまた目を開けたら空が見えるように。私は本当の死を知らなかったから、男が死んだというのが信じられなかった。もし気がついたら自分で出られるように穴は浅く掘った。今では何もかもが怖かった。男も男の死も、たぶん男の命も。車輪はまだ海上にいた。私をじっと見ているような気がした。それとも私を迎えに来たのかしら。
私は夜になると男のすぐ近くの潮溜まりで寝た。ぐっすり眠った時夢がやってきて、私の身体を揺すって言った。「あの車についてお行きよ。男は目覚めないからさ」私は砂浜を這って男の所へ行くと、男にすり寄った。男の眼は開いていた。ああ、生きていたんだ。「起きて すぐに出してあげる」私は男を掘り出すと男を揺すった。「ねえ、一緒にどこかへ行こう。あの車輪より、早く泳いでみせるよ」しかし男は動かなかった。美しい男だった。男が動かないのはきっと夜を見ているんだと思った。「そうだね ここは夜を見る所かもしれない。これほど星が美しく輝く場所は他にはないと姉たちが言っていた。あんたにとってここはどんな夜なのだろう? 私にも教えて欲しい。お前はここで何を感じているの?私はまだ何も感じないんだ」私は男に呼び掛けた。すると夢が言った。「お前はどうなんだい。本当に夜を見てみたいのかい。どうなんだい。この男が欲しいだろ」私は男の目を覗き込んだ。男には何の表情も浮かばなかった。「どこを見ているの?夢を見ているの?なら、ここを夢見てよ」男の瞳に星々が写っているような気がした。すると夢が言った。「お前 そんなところを見て何をしているんだい。そこにはお前の為の何もないのに。そこは地獄の穴よりもっとひどい所さ」私は夢に言った。「違うわ きっと そんなに悪い所じゃない」「お前が何を知っているというのかい?」「何も知らないわ。でも知らなくても分かるのよ」私は夢に問いかけた。「私のもの?」「お前のものって 何のことさ」「だって」「だって?お前それでいいのかい?」
私は男を抱えると立ち上がっていた。そして自分の手足を見おろした。息が果てしなく続いていくような気がした。このままずっと立っていたいと思った。そして海に手を振った。「ここから出して」私の手足には沢山の砂がこびりついていた。それが飛び散って目に入った。「痛い」目に涙が浮かんだ。しかし砂が目から流れて行かなかった。それ以上泣くことが出来なかったのだ。男が首を垂れていた。そこに男の為に掘った穴があった。「ああ、ごめんね。私はお前の墓をもう掘ってしまったんだ。でも、それはきっと私の墓でもあるんだ」そして私は倒れた。いつまでそうしていたのか私にはわからない。気付いた時には口の中がなぜかひどく塩辛かった。「涙だよ。」夢はまだそこにいて私に言った。「お前、見ず知らずの男の為に泣いたのかい。それともそのキラキラしているのは夜の塩かな。そんなものでお前、何をするつもりなんだい。その塩で何をするかお前は知っているのかい。まさかその男を離さないつもりじゃないだろうね」まだ夢の中だと思った。そしてあの車が見かねたように私の所へ来てくれて、私と男を乗せた。「今度こそ、だよ」となぜか優しくなった夢が言った。「ええ 今度こそね」と私も言った。車輪と私たちは出発した。その後 私が人間になったのか、魚になったのか、それとも そのままだったのかは、分からない。夢が醒めて朝になったから。しかし私の息は昨日より少しだけ長く続くようになった。男の眼は閉じていた。抱え上げた男は冷たかった。私はそこに口づけした後砂をかけた。そして男をもっと深く埋めた。
次の日、私は島へ上陸して丘の上まで登った。息が続く自信があった。そして住み始めた。小さな小屋があったのだ。それは四方を海に面していて、そこにいると海の中心にいるような気分になった。住み心地はまあまあだ。朝になると私は扉を少しだけ開けた。やはり隣の島が見える。しかしそれは少しずつ離れていくような気がした。そして今日の遠さは風の速度で言うと十段階の七にあたった。

























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