第2話

文字数 2,590文字




〈吊り橋〉


海の前、松林の中、下草の中で虫が鳴いた。聞き慣れない声だ。松の木が上から何かを落とした。まつぼっくりに見えないこともない。そう、そこは海と陸とが出会う場所。そう、境界線。かつて、海の生き物が変身を遂げた場所。
時は初夏だ。海風は止んでいる。海から水蒸気が上がって行く、人間の目には見えないだろうが。森も水蒸気を盛んに上げ始めた。静かだった。しかし、松の木たちは今まで踊っていたようだ。それが突然、止まった。誰かが言ったのだろう「止まれ」と。でも、どうして?しかしどの松も今まで腰を振っていたのは見え見えだ。そのまま、あっちへ向きこっちへ向き、その姿を見ただけで、ここについさっきまで流れていたのがどんな音楽だったか、分かるというもの。
そして松の木たちの姿が、楽しそうな人間の姿と重なっていく。どこからかハイブリットの気配が漂ってくる。だが、海から、森から、水蒸気は上り続ける。無風のまま気温は上がり続ける。不意に虫の鳴き声が止んだ。人間だ。人間が松林を歩いて来る。二人の男だ。
一人が言う。「この先はすぐ海です。行ってみますか?」たぶん二人は吊り橋へ向かうだろう。人間は皆そうだから。そして橋の途中で必ず立ち止まって海を見るのだ。遠くの海を。そして下を覗く。海から橋の下へと打ち寄せて来る波。それが岩に当たって白い泡になっている。たぶんその白さをしばらく見つめる。そして、しばしの間、何も考えない。眩しい白だ。それが引く波によって形を変えていく。様々な抽象的な形、何物でもない形。一つとして同じ形はない。そして一時として休むことなく形を変え、何かを、人間には思いも知れないものを、続けていく。だが、それは人をもどこかへいざなっていくだろう。そう、人の枠を超えさせていくはずだ。だが、その時自然が自らの深みへと生き物を引き寄せる。そして優しさをみせる。しかし人間への優しさではない。
だが、そこは中間地点。そこでは心も立ち止まるべきなのだ。「休息しよう」私たちも言ったものだ。今では休みなく迷宮の如き世界をひたすら歩いている自らの中の、何者かに向かって。
一人が言っている。「この海が何を隠しているか知っていますか?」「島ですか?それは確か七つ。気温の下がった晴天の日には、海上にそれが一列に並ぶと言われている」「私はある吹雪の時にそれが突然海上に現れるのを見ましたが、
まるで何かの蜃気楼を見ているようでしたよ。それも、ここではなく遥か彼方、時間の彼方にあるどこかの風景、それを見せられているような気がした。しかしそれはすぐに吹雪の中にかき消えていった」「それにしても今日は蒸しますね。
この季節は身体にこたえる」「熱い水ですよ。私たちを攻撃しているのは」「水ですか?私たちは今そこでさしずめ溺れかけて、アップアップしているのでしょうね。この時期、魚のままだったら良かったものを。せめて水陸両用のような爬虫類だったら」「そうですね。ここと、あの海とでは命の濃度が違うでしょうが」「命の濃度ですか?」「おや、私たちの乗った吊り橋のロープを揺すっている者がいますね」「え!私たち以外誰もいないですよ」「そうでしょうか。ここには人間の魂がまだ沢山彷徨っているそうですよ」
その時、二人のいる吊り橋を、海から飛んできた十羽程の鳥がすり抜けていった。その後鳥は山の方で消えた。私たちはそれを見て鳥には彼らが見えていないようだなと思う。二人も呆然として、その羽音のない飛翔を見送る。そして一人があたりを見回し、少し不安そうな顔をする。「今日はどうして誰も来ないのでしょう」もう一人も振り返る。「おかしなこともあるものだ」
そこは有名な観光地のはずだった。「私たちがあの松林からここへ降りて来たからでしょうかね。あそこはどこか不思議な場所だった。」「そうですね。どこか空気の濃度が違っていた。」「ねえ、今、橋の端にいる彼らにとってここはもう満杯状態なのではないですか。この吊り橋は私たち二人を乗せるのも本当はやっとだった。他の者たちはきっと来る事が叶わないのでしょう。だから、あのあたりで、待っているのでは」
「彼ら?と、いうことは」「そう」「きっと、あの松林をぬけてここへ来た時に?」「そう、たぶん、あそこで身軽になれたのでしょう」「そして、やっと見つけた?」「たぶん見つけたのです」二人は吊り橋を渡って行った。
私たちは鳥たちに混じって囁き交わした。「飛び降りなかった」「その必要がなかったのだ」「誰だって、そんな必要はないさ」「何時だって海がそう言っている」「そうさ この橋はいつ何時でも渡るべきなのだ。飛び降りるのはここではない。飛び降りるのは別の場所。海は何時もそう言っている。それはここではない。お前たちの世界には飛び降りる場所は一つもないと」「みな聞いていないさ」「誰も聞く気がないのさ」だから海はどこへも連れて行かないだろう。だから彼らはここにいる。どこにも行かないで。ずっとここにいるしかない。私たちはそう思う。その時松林で再び虫が鳴き出した。先程とはどこか違う鳴き方だ。そして風が吹き出した。空中の水がかき回され、その先に一直線に並んで七つの島が一瞬見えた。二人には無論見えなかっただろうが。水の濃度も変わった。そして先程とはまた別の違った世界が現れた。松の木は再び踊り出した。その姿は益々人間の姿と重なっていく。そしてやはりハイブリットの気配があたりを漂い、今度は私たちにも彼らの音楽が聞こえてくる。
私たちは吊り橋から離れた。二人は吊り橋を渡り切って、先の岩場に立っていた。そして岩場を越えると海へと入って行った。私たちはささやきあった。「何だか楽しそうだぞ。水遊びをしているんじゃないか」「まるで子供だな」仲間の一人が言う。「子供ほど楽しそうに遊ぶ者はいないな」「私たちもそれなりに遊ぼうか。世界が少しばかりそれを許してくれている間に」しかし二人はこの後どこへ帰るのだろう。ここがどこかも知らないのに。
「ああ、ボレロだよ。ぼくはボレロが大好きなんだ」松林の方から声が聞こえた。どうやら曲が変わったようだ。森は水蒸気を上げ続け、松林を消そうと内緒の悪戯をたくらんでいるようにその熱量を上げていく。しかし仲間が何と言おうと海は時折はっきりとした声で、「来い 来い」と言っていると思う。



















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