第15話

文字数 2,862文字




〈再来〉


松林の辺りから子供たちの遊ぶ声がしている。そのうち「さようなら」という声。強風が松林の下に積もっていた松葉を、吹き上げていった。「痛い、痛い」という子供たちの声に笑い声が混ざりあう。予報では夜のうちに台風がこの沖を通過していくという。
少女が弟と松林から出て来た。弟は転んだようで膝をすりむいており、半ズボンは泥だらけだ。しかし平気のようだ。彼らはいつも海沿いの道を通って家へ帰る。兄弟はすぐに半島の先端の道に出てきた。その時、道の先にある今は使われていない灯台から、制服を着た大勢の作業員がぞろぞろと降りてくるのが見えた。みな見慣れない顔だ。灯台は今では観光用だが点検でもしていたのだろうか。二人は道を離れて灯台へと近寄っていった。灯台の窓はどれもしっかりとした厚いビニール板が嵌め込まれている。台風でも大丈夫そうだ。階段の途中にある扉には頑丈な南京錠が下ろされている。
男たちが行ってしまうと二人は灯台の外階段を登っていった。途中の踊り場からは左右の海岸が一望に見渡せるのだ。兄弟は荒れ始めた海を見たいのだろう。荒れた海は美しい。暴風雨の中、たけり狂った海ほど美しいものはない。そして凶暴になればなる程より美しくなる。その姿は人間を掻き立てるのだ。それは海が人間の感情に一番近づく時かもしれない。人間がどうして抱えているのか分からずに、戸惑いながらも離さない何かの感情に。
しかし二人は急激に強くなっていく風に今にも飛ばされそうだ。手摺にすがりついている。そのうち登るのを諦め引き返していくようだ。地元の子供は台風の恐ろしさを知っている。二人は台風の度に今度こそ浜へ出て、荒れ狂った海を見てみたいと思ったが、そうできないことも分かっていた。
その時少女が海を振り返る。何か見えた気がする。そして見えることを知っていたように思える。それは車輪だったようだ。なんだか生きているような車輪だった。それにしても何と不思議な風景だったろう。少女は弟を気遣いながら、手摺に縋り付きながら降りて行く。弟はしっかり付いて来ている。車輪なんかある訳ない。しかしもう一度振り返る。やはり車輪が荒れる海の波の上に浮いていた。
強風に叩かれ打ち付ける波に叩かれ、しかしどこか別の場所にいるかのように平然と海の上に浮いている。大波に揺られ風に沈められそうになりながら、必死で波の上に出ようとしているのではない。
少女は弟を振り返りながら、弟が降りて来るのを確かめながら、灯台の階段を降りて行く。あれは浜に捨てられた車輪が流されたのではない。不意に風が弱まった。そう、台風は息をしているのだ。大きな息を吐き出した後に少し息切れをおこす。少女はそう考えながら道までくる。今度は弟の手を握った。少し帰りが遅くなってしまったと考えている。しかし美しい海だ。今は海が生き物になる時なのだ。例え凶暴に見えてもこの上なく美しい生き物。少女はまた海を見ているようだ。再び波が大きく持ち上がり、そしてそれが見たことのないケモノになるかと思われた時、その波の上に再びあの車輪が現れた。「え!」少女は思わず息を止めた。車輪の上に自分がいるではないか。車軸を背にしてこちらを向いている。わたし?車輪に呼び掛ける。「私はここよ」その時〈わたし〉の顔を容赦ない波が叩いた。そして波の残した泡が自分の顔を取り囲んで騒ぐのを見る。「凶暴な生き物?そう言ったの?」少女は車輪の中の自分に言う。「海はケモノとなって生き物を迎える準備をしているのよ。だからあそこに来るのは同じように凶暴で・・でも海に呼ばれた悲しみを胸に抱いた哀れなケモノ。なぜそんな所にいるの?」
不意に弟が少女の手を引っ張った。なぜそこにとどまってまっているのか、ボンヤリしているのか、分からなかったのだ。「お姉ちゃん、行こうよ」弟は早く帰りたがっていた。「うん」しかし少女は思う。なんだか変な気分だと。それでも少女は歩き始める。だがまた海を見る。見ないではいられない。振り返らずにいられない。そして、海の車輪の少女に手を差し伸べる。「こっちへ来る?」そう、こちらへ来たがっている。わたしのところへ。しかし、再び海に素晴らしい大波が来て、少女と車輪をめいっぱい押し上げた。そして海は彼女に彼女が思いもしなかった何かを見せた。そしてその隣には自分が、いや自分とは少し違う少女がいた。そして突然「乗れ」と聞こえた。きっと波の音だわ。でも、「わたしが行くのだわ」あの人が来るのではなくて。少女はそう思った。しかしその後すぐに、海はその全部を飲み込んでしまった。少女は思う。波は押し上げ、見せ、それからそれを飲み込むのだ。何時だってそうだ。見せたものをすぐに消してしまう。その時何かをしたかったら即座にしなくてはいけない。でも決断を急ぎたくはなかった。でも、もっと早くしなくてはいけなかったのだろうか?しかし何だか不思議な感じ。もうしてしまったようにも思える。いえ、自分を慰めているだけだわ。私はそれが得意だから。しかしあれは今まで自分が見た中で一番大きな波だった。素晴らしい波だった。もう一度見る事は出来ないだろうか。しかし同じ波が来ることはないのだ。波はどんなに素晴らしくても生まれた途端に死んでいくから。
「お姉ちゃん、早く帰ろうよ。お腹が空いたよ」雨が激しく降って来ていた。雨が二人の足を洗っていった。しかし二人は雨など平気だった。しかし少女はあの車輪の少女のことはもう考えたくないようだ。それよりあの波に魅せられていた。車輪は優しそうだったが綺麗な車ではなかったと少女は思う。
その時海中で車輪の意識が戻る。そして思う。考えたくないのと思い出さないのとは違っているだろうと。そして車輪はもう一度夜に盛りを迎えた台風の中心に、姿を現した。戻るべき時だった。この世界に長くはいられなかった。少女がどうなったのか見届けられないのは分かっていた。海中で離れて行った少女も波に預けるしかなかった。そうすべきなのだ。マスターも分かってくれるだろう。マスターは再びここに来ていた。そして嵐の中で叫んだのだ。「七つの車輪よ、集まれ。七つの環よ」と。
しかし先導車が竜を率いて波の上に現れることはなかった。それはすでにこの世界のことではなくなっていた。人々は何も見なかっただろうし、時はすでに過ぎ去ってしまっていた。そして時はここに僅かなものしか残していかなかった。起きた事すべてを知るには何にしても足らないとしか言いようのないものしか。しかし、その時岬の灯台に明かりが灯った。使われていない灯台だったが。それだからかもしれない。そう、それも又見捨てられたものだから。だが、その照明から一筋の光の道が海へと放たれていった。そしてその道は車輪のように、優しく、厳かに、回転していた。
恐らくそれを見た者は感じるだろう。乗せがたいものを乗せようとし、呼び掛けがたい者に呼び掛け、帰れと告げる存在を。同時に自らの中にいて、それでも行けと告げる存在を。


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