第3話
文字数 3,373文字
あれから一ヶ月、僕は無為に日々を過ごした。こちらでの僕の仕事は、北欧家具のセールスではなく、何やらのシステム開発に携わっているらしい。上司に言われるまま、担当部分のシステム設計やテスト計画書の作成などを僕は任されている。
最初は戸惑ったのだが、同僚に聞いて回ると、皆、親切に教えてくれた。どうも辰砂から会社の方に、頭を打ってまだ記憶が混濁していると連絡が入ったらしいのだ。それに、同僚からは「なんか前より人当たりが良くなったなぁ」なんて言われ、寧ろ喜ばれているらしかった。
それにしても僕は、今まで、どういう人付き合いをしていたんだ?
辰砂とは普通の夫婦のように暮らしている。但し、矢張り美菜や有希を裏切る気がしてならないので、隣で寝てはいるのだが、何かと理由を付け、辰砂にはまだ手を出していない。だが、何時までも、そう云う訳には行かないだろう。僕も、何時かは覚悟を決めなくてはな……。
そんな仕事にも慣れてきたある夜、会社から帰ると、リビングのテーブルに辰砂が恐い顔をして座っていた。そして、僕の帰宅を確認すると、僕にテーブルに来るようにと、こう言い放った。
「あなた、こっちに来て座って……」
僕は困惑した。朝は何事もなく出社を見送って貰ったのだ。僕が何をしたというのだ?
「これを見て」
僕が恐る恐るテーブルに着くと、辰砂は暗い声でそう言った。成程、動転して気付かなかったが、テーブルの中央に僕宛の封筒が置いてある。それにしても、誰からだろう?
まさか、誰かが僕を陥れようと嘘の手紙を送り付けてきたのでは……? 確かに僕の夜の態度は、浮気を疑われても仕方がないのかも知れないが……。
「中を見たのか? 誰からなんだ?」
「親展って書いてあるわ……」
見てないんだったら、なんでお前は怒ってるんだよ!
その理由は直ぐに分かった。
「封筒に政木の家紋が描かれている。これは政木家からの手紙よ……」
そうか……、これは政木家からの上意書。僕自身は政木の家来ではないので、上意に従う謂 れはないのだが、辰砂は妖狐の出、それも謀反を起した要注意人物だ。下手な行動を取れば即、謀反と見なされる。政木家からの上意には絶対逆らえない。
「辰砂、ペーパーナイフを持って来てくれ。直ぐに中を確認する!」
「中には何も入っていないわ。封を開いたら使者が表れ、直接あなたに上意を伝える。身形 を整え、準備が出来たら封を開いて……」
それを聞いて僕は少し落ち着いた。急ぐことはない。何があっても対処出来るように、準備が出来てから使者を迎えればよいのだ。
「こんなことは、今まであったのか?」
「いいえ。私があなたに下げ渡しになった後は、一切連絡が無かった筈よ」
「何だろう……?」
「意見が変わり、私を処刑することにしたのかも……」
「そんな馬鹿な! 辰砂の処遇は既に公式に決している筈じゃないか! それを、何で今になって……」
辰砂は口許に微かな笑みを浮かべた。
「妖狐の世界は法治国家じゃないのよ。トップの意思や感情で何でも勝手に覆せる。それが、公式な条約や法に従ったものだったとしてもね……」
そんな馬鹿な……。それでは、人は何を信じていけば良いのだ? 仮にトップが明確に判決を下しても、気分が変わったり、トップが代替わりして意見が異なれば、過去に遡って判決を覆せると云うことなのか?
「どうするの?」
「封は開く。だけど、それがもし、今、辰砂を処罰する様なものであれば、そんな不当な内容に従う気はない。例え無力であったとしても、僕は政木に対し一存を通す!」
「人間にも被害が出るわよ。もしかしたら、お義父さんやお義母さんにも……」
「パパやママは許してくれると思う。少なくともママは、僕が辰砂を見殺しにする様なことを許しはしない。当然だ。ずっと一緒に暮らしてきた家族なんだから……。辰砂、ペーパーナイフを。今直ぐ封を切る」
僕は辰砂からペーパーナイフを受け取ると、素早くそれで封を開いた。
確かに中には何も入っていない。だが、その一瞬後にリビングの玄関側の入り口付近に人影が見えてくる。それが使者なのだろう。そいつは長袴に裃を着けた人間の姿をした狐だった。しかし、その狐の顔は下駄型で凡そ狐のイメージからは程遠い。
「大全さん……」
そう。彼は政木大全景元。政木家次期当主だ。勿論、使者をする様な立場の狐ではない。だが彼は、僕の言葉が聞こえなかったかの様に僕を無視し、自分の役回りをこなしていく。
「上意である」
彼は『上』と表書きの書かれた書状を僕たちに見せ、その書状を開いて読み聞かせた。
「要鉄男、その妻辰砂、両名速やかに政木屋敷に出仕せよ。委細は大刀自様自ら両名に告げよう」
「ふざけるなよ。大全さん……、いや、大全! 僕は政木の家臣じゃないぞ! 場合に因っては只じゃ済まさないからな……」
それを聞いて今度は、彼も表情を緩めた。
「そんな怒んないでくださいよ。要殿。我らだって、こうして形式だけは整えないと、頑固な年寄り狐どもが煩いんですから……」
良かった……。ここの大全さんも、堅苦しいことが嫌いな、僕の知っている大全さんだった。
「で、何なんですか? この茶番は?」
「それは、私の口からは言えないんですよ。勘弁してくださいよ。その替わり、終わったら遊郭にでも御招待しますから……」
「花魁とまではいかなくても、それなりのをつけてくれなきゃ許しませんからね!」
僕の冗談に、向かいに座っていた辰砂が、テーブルの上に置いていた僕の手の甲を、少し爪を立てて思い切りつねる。ち、ちょっと、痛いって!!
「ははは、奥方につねられる何て、相変わらずですね、要殿は……」
そう言ってから、大全は口を両手で押さえた。それにしても、この人(狐)の失言癖は全然治ってないなぁ。後で辰砂に説明するのが面倒臭いじゃないか……。
僕が大全さんの前でつねられたのは、政木家謁見の大広間。政木の大刀自に失礼なことを言った時、隣にいた縫絵さんに思い切り尻をつねられたのだ。法的にはどうであれ、その時の縫絵さんは、間違いなく僕の妻だった。
ま、言ってしまったことは、もう仕方ないだろう。後で問い詰められついでだ、ひとつ気になることを彼に聞いて置こう。
「ところで、つかぬことを訊きますが」
「何ですか? 要殿」
「沼藺 は? 沼藺と云う女性を、大全さんは知りませんか?」
それを聞いて、大全さんの表情が途端に険しくなった。本当、嘘の吐けない人(狐)だ。顔が、思いっきり沼藺を知っていると言っている。
「どうしてそれを……。沼藺は、私の妹にあたりますが……」
成程、沼藺は存在するのか……。この世界でも縫絵さんは死んでいる。だから、縫絵さんの生まれ変わりの沼藺がいても別に不思議じゃないんだ……。だが、まぁ確かに、辰砂を引き取った僕の、許嫁に何かなる訳がないよな……。僕が政木家と良好な関係でいられたのは、大刀自が縫絵さんを気にいってたからに過ぎないのだからな……。
僕はきっと、政木の大刀自から見れば、縫絵さんが死んだ直後に辰砂に鞍替えした、節操の無い裏切り者なんだろうな……。
「いや、何でも無いです。政木家が、沼藺と云う養女を迎えたと聞いていたもので……」
苦し紛れの嘘であったが、大全さんはそれを聞いて安心したように笑ってくれていた。そうだ。僕にはもう関係の無いことなのだ。もう、沼藺のことは忘れよう。
「では、お支度ください。準備が出来ましたら、私が『狐の抜け穴』を開いて、屋敷の門までお二人をご案内致します」
僕は夕食を食べ、少し寛いでから出仕の支度をし、『狐の抜け穴』を潜ることにした。支度とは裃、長袴に着替えることであり、辰砂も、髷こそ結い直せなかったが、それなりの和装に着替え直している。
その間、大全さんはダイニングのテーブルに腰掛けて、お茶を啜りながら待っている。彼に言わせると、「折角、ばぁさんから解放されたんですからね、なるべくゆっくり支度してくださいよ。政木屋敷は時の無い世界ですからね、早く行っても遅く行っても同じです」とのことであった。
それにしても大全さんは脇が甘い。
どこに政木の大刀自のスパイが潜んでいないとも限らないのだ。あんなこと言って、後で絶対お説教を喰らうに違いない。
「それじゃ行きましょうか!」
最初は戸惑ったのだが、同僚に聞いて回ると、皆、親切に教えてくれた。どうも辰砂から会社の方に、頭を打ってまだ記憶が混濁していると連絡が入ったらしいのだ。それに、同僚からは「なんか前より人当たりが良くなったなぁ」なんて言われ、寧ろ喜ばれているらしかった。
それにしても僕は、今まで、どういう人付き合いをしていたんだ?
辰砂とは普通の夫婦のように暮らしている。但し、矢張り美菜や有希を裏切る気がしてならないので、隣で寝てはいるのだが、何かと理由を付け、辰砂にはまだ手を出していない。だが、何時までも、そう云う訳には行かないだろう。僕も、何時かは覚悟を決めなくてはな……。
そんな仕事にも慣れてきたある夜、会社から帰ると、リビングのテーブルに辰砂が恐い顔をして座っていた。そして、僕の帰宅を確認すると、僕にテーブルに来るようにと、こう言い放った。
「あなた、こっちに来て座って……」
僕は困惑した。朝は何事もなく出社を見送って貰ったのだ。僕が何をしたというのだ?
「これを見て」
僕が恐る恐るテーブルに着くと、辰砂は暗い声でそう言った。成程、動転して気付かなかったが、テーブルの中央に僕宛の封筒が置いてある。それにしても、誰からだろう?
まさか、誰かが僕を陥れようと嘘の手紙を送り付けてきたのでは……? 確かに僕の夜の態度は、浮気を疑われても仕方がないのかも知れないが……。
「中を見たのか? 誰からなんだ?」
「親展って書いてあるわ……」
見てないんだったら、なんでお前は怒ってるんだよ!
その理由は直ぐに分かった。
「封筒に政木の家紋が描かれている。これは政木家からの手紙よ……」
そうか……、これは政木家からの上意書。僕自身は政木の家来ではないので、上意に従う
「辰砂、ペーパーナイフを持って来てくれ。直ぐに中を確認する!」
「中には何も入っていないわ。封を開いたら使者が表れ、直接あなたに上意を伝える。
それを聞いて僕は少し落ち着いた。急ぐことはない。何があっても対処出来るように、準備が出来てから使者を迎えればよいのだ。
「こんなことは、今まであったのか?」
「いいえ。私があなたに下げ渡しになった後は、一切連絡が無かった筈よ」
「何だろう……?」
「意見が変わり、私を処刑することにしたのかも……」
「そんな馬鹿な! 辰砂の処遇は既に公式に決している筈じゃないか! それを、何で今になって……」
辰砂は口許に微かな笑みを浮かべた。
「妖狐の世界は法治国家じゃないのよ。トップの意思や感情で何でも勝手に覆せる。それが、公式な条約や法に従ったものだったとしてもね……」
そんな馬鹿な……。それでは、人は何を信じていけば良いのだ? 仮にトップが明確に判決を下しても、気分が変わったり、トップが代替わりして意見が異なれば、過去に遡って判決を覆せると云うことなのか?
「どうするの?」
「封は開く。だけど、それがもし、今、辰砂を処罰する様なものであれば、そんな不当な内容に従う気はない。例え無力であったとしても、僕は政木に対し一存を通す!」
「人間にも被害が出るわよ。もしかしたら、お義父さんやお義母さんにも……」
「パパやママは許してくれると思う。少なくともママは、僕が辰砂を見殺しにする様なことを許しはしない。当然だ。ずっと一緒に暮らしてきた家族なんだから……。辰砂、ペーパーナイフを。今直ぐ封を切る」
僕は辰砂からペーパーナイフを受け取ると、素早くそれで封を開いた。
確かに中には何も入っていない。だが、その一瞬後にリビングの玄関側の入り口付近に人影が見えてくる。それが使者なのだろう。そいつは長袴に裃を着けた人間の姿をした狐だった。しかし、その狐の顔は下駄型で凡そ狐のイメージからは程遠い。
「大全さん……」
そう。彼は政木大全景元。政木家次期当主だ。勿論、使者をする様な立場の狐ではない。だが彼は、僕の言葉が聞こえなかったかの様に僕を無視し、自分の役回りをこなしていく。
「上意である」
彼は『上』と表書きの書かれた書状を僕たちに見せ、その書状を開いて読み聞かせた。
「要鉄男、その妻辰砂、両名速やかに政木屋敷に出仕せよ。委細は大刀自様自ら両名に告げよう」
「ふざけるなよ。大全さん……、いや、大全! 僕は政木の家臣じゃないぞ! 場合に因っては只じゃ済まさないからな……」
それを聞いて今度は、彼も表情を緩めた。
「そんな怒んないでくださいよ。要殿。我らだって、こうして形式だけは整えないと、頑固な年寄り狐どもが煩いんですから……」
良かった……。ここの大全さんも、堅苦しいことが嫌いな、僕の知っている大全さんだった。
「で、何なんですか? この茶番は?」
「それは、私の口からは言えないんですよ。勘弁してくださいよ。その替わり、終わったら遊郭にでも御招待しますから……」
「花魁とまではいかなくても、それなりのをつけてくれなきゃ許しませんからね!」
僕の冗談に、向かいに座っていた辰砂が、テーブルの上に置いていた僕の手の甲を、少し爪を立てて思い切りつねる。ち、ちょっと、痛いって!!
「ははは、奥方につねられる何て、相変わらずですね、要殿は……」
そう言ってから、大全は口を両手で押さえた。それにしても、この人(狐)の失言癖は全然治ってないなぁ。後で辰砂に説明するのが面倒臭いじゃないか……。
僕が大全さんの前でつねられたのは、政木家謁見の大広間。政木の大刀自に失礼なことを言った時、隣にいた縫絵さんに思い切り尻をつねられたのだ。法的にはどうであれ、その時の縫絵さんは、間違いなく僕の妻だった。
ま、言ってしまったことは、もう仕方ないだろう。後で問い詰められついでだ、ひとつ気になることを彼に聞いて置こう。
「ところで、つかぬことを訊きますが」
「何ですか? 要殿」
「
それを聞いて、大全さんの表情が途端に険しくなった。本当、嘘の吐けない人(狐)だ。顔が、思いっきり沼藺を知っていると言っている。
「どうしてそれを……。沼藺は、私の妹にあたりますが……」
成程、沼藺は存在するのか……。この世界でも縫絵さんは死んでいる。だから、縫絵さんの生まれ変わりの沼藺がいても別に不思議じゃないんだ……。だが、まぁ確かに、辰砂を引き取った僕の、許嫁に何かなる訳がないよな……。僕が政木家と良好な関係でいられたのは、大刀自が縫絵さんを気にいってたからに過ぎないのだからな……。
僕はきっと、政木の大刀自から見れば、縫絵さんが死んだ直後に辰砂に鞍替えした、節操の無い裏切り者なんだろうな……。
「いや、何でも無いです。政木家が、沼藺と云う養女を迎えたと聞いていたもので……」
苦し紛れの嘘であったが、大全さんはそれを聞いて安心したように笑ってくれていた。そうだ。僕にはもう関係の無いことなのだ。もう、沼藺のことは忘れよう。
「では、お支度ください。準備が出来ましたら、私が『狐の抜け穴』を開いて、屋敷の門までお二人をご案内致します」
僕は夕食を食べ、少し寛いでから出仕の支度をし、『狐の抜け穴』を潜ることにした。支度とは裃、長袴に着替えることであり、辰砂も、髷こそ結い直せなかったが、それなりの和装に着替え直している。
その間、大全さんはダイニングのテーブルに腰掛けて、お茶を啜りながら待っている。彼に言わせると、「折角、ばぁさんから解放されたんですからね、なるべくゆっくり支度してくださいよ。政木屋敷は時の無い世界ですからね、早く行っても遅く行っても同じです」とのことであった。
それにしても大全さんは脇が甘い。
どこに政木の大刀自のスパイが潜んでいないとも限らないのだ。あんなこと言って、後で絶対お説教を喰らうに違いない。
「それじゃ行きましょうか!」