2-3節

文字数 3,320文字

 土曜の授業後、そして日曜と、いずれも昼一番からビルに行った。早い時間の来訪の理由を訊ねられたついでに話した、学校の休みや時間割のことを、ムトは興味深そうに聞いていた。生活習慣の異なりが気になるらしく、自分たちが普段気に留めていない点をよく訊くため、その度に皆は色々と考えた。
 もっとも十吾は結論を急ぐか放棄していたし、ゆかりは他に気がかりがあったので、自然と湊の回答が多くなった。吉男も考えるが、結論を出すのが遅い上に言葉にするのが下手なため、回答者足りえることはなかった。形成途中だった答えは湊の話によって大抵は覆り、同調した。それでは自分の意見が無いのと同じだ、などと吉男は思わない。湊の答えが、心の底から同意できるすっきりしたものだからであったし、未提出とはいえ自分も回答すべく頭をひねったという手応えだけで充分なのだった。
 それに、吉男には未確認ノートがあった。湊が持っていないものであり、自分なりに書き進めていける点が特に気に入っていた。少しずつ余白が埋まっていくノートを後から読み返す時、達成感と希望を感じられる。自己の存在や個性を認められる道具であり、拠り所になりさえした。
 しかし、だからこそ、未確認ノートの否定は自己の否定にも繋がる。
 月曜、二時間目が終わってすぐ吉男は松尾先生に呼ばれた。係の仕事だ。クラスには「委員」の他に「係」という役割がある。美化委員が校内の清掃活動を担うように、係は各教科に関しての雑事を受け持つ。吉男は算数係だった。宿題のプリントを集めて職員室に持ってくるよう先生に頼まれたのだ。
 先に教室を出ていく先生が、プリントは矢田のところへと言ってくれたため、吉男は声を張らずに済み、その点は安心した。しかし、嫌な予感がしていた。いつも休み時間には湊と一緒なので大丈夫だが、一人になってしまう。狙われる危険があった。けれど、たかがプリントを運ぶだけでついてきてもらうのも、さすがに臆病が過ぎる気がする。第一、湊に理由を説明できない。やはり一人で行くしかないのだ。
 吉男は集まったプリントを掴むと、だし抜けに教室を出た。とはいえそれは、吉男にとっての不意と思われるタイミングであり、安全性が確保されるわけではない。早歩きで廊下を進みはじめてすぐ、背後でドアの開く音がした。休み時間であり、人の出入りは多いため誰とも限らない。だが吉男は振り向かなかった。おそれから、事態が決定的になるのを避けたのだ。誰であろうと職員室にたどり着けばいいと考えたのは、前向きではなく逃避の部類だった。
 三階の階段を駆け降り、職員室のある一階へ向かう。手すりを頼りに踊り場を勢いよく曲がり、最下段は一段飛ばしにして進む。輪唱するかのように、上階の方からも階段を降りる音が聞こえてきた。
 今は中休みで、十五分もあるんだ。教室から遠出する人もいるんだから、あいつらとは限らないはず。などと思いながらも、吉男は歩みを早める。しかし、わずかずつ足音が大きくなっていく。相手の方が早いことにまた焦り、鼓動が高鳴る。一階に着いた。背後で上履きのきゅっ、という音が聞こえたとき、職員室に駆け込むことができた。
 息を切らせ、うなだれがちの吉男に対し「廊下は走っちゃいかんよ」と注意し、松尾先生はプリントを受け取った。「ありがとう。戻っていいよ」
 出たくはないが、職員室にも生徒が滞在しにくい独特の空気があり、居心地は良くなかった。ドアに張られた磨りガラスのため、廊下の様子はわからない。そうだ、せめて入ってきた時とは逆側のドアから出れば、待ち伏せされていたとしても時間を稼げるかもしれない。そうだ、そうだ、階段もだ。珍しく頭の冴えた吉男は、先生たちの不思議そうな視線に耐えながら職員室を横断した。
 身を滑り込ませるようにして、開いたドアから廊下へ出た。先生に見咎められては事だと思い、決して走らず最大限の早歩きで逆側の階段を目指す。しかし、出る時に元来た方向に誰もいないのが見えた。だから急がなくてもいいのだが、焦心のためになかなかすぐには切り替えられない。
 でも、よかった。思い過ごしだったんだ。そう思いながら角を折れると、階段の前に立ちはだかる者がいた。
「よう、矢田」
 顔を見る余裕もなく、驚きのまま吉男は引き返そうとした。ところが、背後からぬうっと影が覆った。
「よう、矢田」
 同じ科白(せりふ)を吐く二人にじりじりとにじり寄られ、なす術もなく吉男は囲まれた。挟み撃ちだ。東側の階段を使った吉男を追ったのは一人だったが、西側の階段にもう一人回り込んでいたのだろう。どう足掻いても逃げ場などなかったと思い、吉男は脱力する。
「こんなところで奇遇だなあ」と、野呂隆明(のろたかあき)が言った。
「こんなところで奇遇だなあ」と、野呂秀明(ひであき)が言った。
 同時だった。わざとらしさも同じであり、吉男は二倍うんざりした。一階の階段前はやや薄暗く、長身の双子に挟まれた吉男には一回り暗く、そして視界がずいぶん狭くなったように感じられる。細身だが、身長だけなら十吾より上である。すでに、威圧感に押しつぶされはじめていた。
 兄の野呂隆明が顎をさすりながら言った。
「そういえば矢田あ、お前まだ未確認生物とやらを探してるのかあ?」
 意味もなく何気なさを装っている。「そういえば」などと当てつけに他ならない。まともに取り合わないことにして、吉男は答えた。「そんなの、どうでもいいでしょ」
「おやおや、こいつは」兄が言うと弟が続く。「素直じゃないねえ」
「加瀬とまた何かやっているんだろう?」 
「休み時間の度にノートを持って」 
「あのぼろっちいノート」 
「妄想ばかり書きつづって」 
「いやしないのに。なあ」 
「なあ」 
「それしかやることがないんだ」 
「他にすがるものがないんだ」 
「勉強も運動もできない」 
「妄想しかできない」 
「証明できなきゃうそだ」 
「証拠がなきゃうそだ」 
「おい、うそつき」 
「おい、うそつき」 
 延々と嫌味は続いた。 
 野呂兄弟は、未確認生物や妖怪に傾倒する吉男を、いつも頭ごなしに否定してくる。存在の可能性を肯定せず、虚言妄言だと罵倒する。科学的根拠が無い、確かな証明がなされていない、などの理由は、持ってはいるが建て前にしか過ぎず、自分たちより弱い人間をいたぶる為の、糾弾の皮を張り付けた戸板のような盾でしかない。 
 以前、湊と居る時にいちゃもんをつけてきた野呂兄弟が、理路整然とした反論の芽のない湊の抗弁の前に退散するといったことがあり、それから彼らは吉男が一人の時を狙うようになった。湊の話というのは、言い回しや言葉の選択を含め、裏打ちされる知識によって効力を発揮している点が大きかったが、吉男には威力のある知識などない。
 だとしても、不必要な言い掛かりなのは明らかであり、反駁(はんばく)に正当性はあるはずである。それに今までは実際に発見していないこともあって、強い反撃に転じられずにいたが、今はムトという未確認生物と出会っている。たとえこの場で証明できなくとも、ぐっと突っぱねることは可能なはずだ。 
 しかし、声が出なくなっていた。頭上から呪詛のような言葉を浴びせられ続けるうち、暗澹(あんたん)とした気持ちに陥っていく。どんどん視界が狭く、胸が苦しくなってくる。どうにか言おうとするも、喉全体に粘着質の膜が張り付いており、力がまるで込められない。相手からの圧力より以上に(すく)んでしまういつもの感覚がしていた。 
 湊には相談できない。言えば、自分が反論したために一人の時を攻撃され、苦しんでいると思うからだ。だから、ぼくが何とかしなくちゃいけない。なのに。なのに。 
 責任感を含む戦意は、やがて見えなくなるほど萎み、狭まる視界の狭間へ没した。追いかける気力は失われ、さんざ罵った野呂兄弟が去ってからチャイムが鳴るまで、茫然と吉男は立ち尽くした。
 いずれムトのことを世に発表すれば。その時には。下卑た希望が浮かんでいた。
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