3-2節

文字数 1,378文字

 たかが、名前を呼ばれただけのこと。なんでもない。なのに、どうしてこうも気になるのか。目で追ってしまうのか。わからない。どうしても。
 ゆかりにとって一番解せないのは、理由らしい理由がなさそうなことだった。名前なら誰にだって呼ばれているからだ。自分のことで意思が定まらないのも初めてであり、しかし己の中のぶれのようなものは感じることができた。対抗心は失っていないが、違う感情が介入したことで、割合としては下がってしまっている。それは嫌だ、とゆかりは思った。
 今の状態になる前、もっと集中していた時でさえ勝てたためしが無いのに、このままでは何もかも中途半端になってしまう。だから、一刻も早くこの気持ちの正体を見つけ、処理しなければならない。それが適わぬとしても、抑える術は身につけるべきだ。余計な感情を抱えると、前回ムトに心配された時のように、本来の役目がおろそかになる恐れがある。それはよくない。やるべき仕事と感情は関係ないのだ。もっと没頭しなければ。少なくとも、正体不明のもやもやに執心しないように。
 そう考えたゆかりは、先生に振られた作業にしめたとばかりのめり込もうとした。しかし、やはり捗らなかった。意識しないようにすることは意識することと同義であり、無意識とは思考の働きによっては生まれないからだ。でも、これは自分の仕事だ。自分がやらなければならないと、ゆかりは思い込んでいた。
 いつもなら休み時間内に終わる作業は、ついに放課後へ突入した。やむなく吉男に遅れる旨を告げ、再び自席に戻ったゆかりに、クラスメイトの木下里子(きのしたさとこ)が声を掛けた。
「ゆかりちゃん。なんだか大変そうだけど、手伝おうか?」
 おっとりした声で、おずおずと里子が言う。「今日は校内美化活動ないの」
 里子は美化委員だった。校内美化活動は月に一度なので、仕事の頻度は低い。ゆかりとはたまに会話を交わす程度の仲だが、放課後にまで作業を長引かせるのは滅多にないので、その点で心配りをしてくれたのかもしれない。他意はなさそうだ。仕事の少なさを匂わせることで気を遣わせないようにもしている。優しい子だな、とゆかりは思った。
 だが、なおのこと頼るわけにはいかない。他人に頼るということは、自分の欠陥性、能力の不足を認めるということに他ならないからだ。まして、プリントの整理などという簡単極まりない作業をわざわざ手伝ってもらうのは、きっと違う。これはやはり自分のみで完遂しなければいけない事柄なのだ。
「いえ、大丈夫よ」
 ぐっと里子を見上げてゆかりは言った。「一人で大丈夫だから」
「で、でも、一人より二人でやった方が早いよ」
 気は弱そうなのに、意外と食い下がる里子。頑として断る必要があると思い、ゆかりはまくし立てた。
「本当に大丈夫なの。途中まであたしがやったんだから、今さら他の人に入られても間違うかもしれないわ。だいたい、一から説明もしないといけないし、だったらその間に続けた方が早いに決まってる。本当に一人でいいのよ。事情も知らないのにいい加減なこと言わないで」
 拒絶を感じさせる張りつめた眼光を向けられた里子は、衝撃に固まり、弱々しく呟いた。
「そう……」
 手に持ったプリントを見つめ、気遣わしげな瞳をして去る里子の悲しい一瞥を、ゆかりは背に受けた。
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