6-1節

文字数 4,652文字

 いつものように住処でムトと話した帰り際、ゆかりが言った。
「そうそうムト、あたしたち明日は来ないから」
「ほう。なぜだ?」
「おいおい、なんでおれまで入ってんだ」ムトの疑問に乗っかる形で十吾が抗議する。
「山野くん、あなた先生の話聞いてた?」やれやれというふうに額に手をあてるゆかり。「明日の放課後は音楽会の練習するからって言ってたでしょう」
 傾いたままのムトに湊が説明する。「音楽会っていうのは、クラスごとに決まった曲を演奏する会のことさ。それぞれ歌や楽器の担当があって、しかも三十人以上いるから息を合わせるのが大変なんだよ」
「なるほど」歌が得意なムトは興味深そうに頷いた。
「うへえ、めんどくせえなあ。そんなの聞いてないぜ」ムトとは反対に、心底いやそうに十吾がうなだれる。
「だから先生言ってたってば。うちのクラスはいまいちみんな覚えてないから、追加で練習しようって」
「そういやあれだ、音楽は自由でいいって前に先生いってたぞ。だったら、べつにむりして練習しなくていいはずだぜ」
「なんでそういうのは覚えてるの。自由っていうのは楽譜の上での自由よ。しっちゃかめっちゃかやればいいってことじゃないわ」
「いいじゃん別に。その方が楽しそうだ」
「だめよ、この音楽会は六年生の壮行会も兼ねてるんだから。在校生に向けてちゃんとした演奏で返さないと」
「めんどくせえ。だいたいその、ソーコーカイってのもよくわかんないんだよな」
「壮行会っていうのは」
「あーあーはいはいわかったわかった、やればいいんだろやれば」
 一向にゆかりが引かないのでそちらの方がめんどくさくなってきて、十吾は観念した。
「よし」満足げにゆかりが笑みをたたえる。
「まったくよお」
 相変わらず二人はいがみ合っているが、以前の険悪な雰囲気はなくなっていると吉男は感じていた。竹井と元通り遊ぶようになった十吾の心境変化が大きいのかもしれない。もっとも竹井は市のサッカーチームに入っているので放課後は忙しく、ここに来ることはないのだが、すっきりした顔で過ごしている最近の十吾を見て吉男はうれしくなる。暇つぶしや逃避の手段でもあったムトや住処のことが、いつしか十吾にとっても掛け値なしに大事な存在になっていた。
 ゆかりも、湊たち含めクラスの男子とも話す機会が増えた。棘はなくなっていないが、とげとげしていない。優しさや厳しさの種類が変わったみたいだった。
 暖かい感情になったとき、いつも不穏な影がちらついた。でも、いい加減このままじゃいけないと吉男は思いはじめていた。みんな変わっていく。悩みや葛藤を超えるのは簡単ではないし、長い戦いになるかもしれない。それでも、次にあいつらが来たらはねのけてやるんだ、と吉男は決意した。
 音楽会の練習を終えた帰り道、みんな少し寂しくなった。ムトと出会ってから今日まで、一日も欠かさず行っていたのだ。「行かない理由」がなく、今回のは「行けない事情」だった。習慣化しているから、面白い体験ができるから、というのもあるが、単純にムトのことがみんな好きだった。自分たちが一日行かないことで、ムトもちょっとくらい寂しくなってくれているといいなと思った。

 翌日にあった音楽会はまずまず成功といえた。ところが、放課後になって十吾が「よっしゃ、ムトのとこ行こうぜ」と言うと、吉男がきょとんとした目で見つめた。
「ムトってだれ?」
「なに言ってんだよ。ほら、はやく行くぞ」
「いや、あの、ほんとに」
 最初は冗談だと思った。だが、とぼけているふうでもなく、だんだん本気で吉男がわかっていないと知れてきた。完全にムトのことを忘れているようだった。
「おいおい、あのムトだよ。あの駅前のビルにいる宇宙人の。からだがやわらかくてよ」十吾が説明するも吉男はぴんときていない。
「吉男くん、ノートを見てみてくれないか」
 湊が言うと、未確認ノートの存在は覚えていたらしい吉男がランドセルから取り出した。だが、開いてみて眉根を寄せる。
「これ、ぼくが書いたの?」
「そうさ。毎日書いていたはずだよ」
 びっしりと書かれた自分の字や絵を、吉男は難しい顔で眺めている。「これを、ぼくが」
「ムトに会ってみればどうかしら」自席で手早く雑事を片付けたゆかりがやってきた。話は聞いていたようだ。「このままじゃ埒が明かないもの」
「そうだね」湊が頷く。「吉男くん。僕たちについてきてほしい」
「う、うん」真剣な湊の眼差しにたじろぐ吉男。「わかったよ」
 なぜ忘れているかわからないにせよ、ムトに関することなので、何が起こっても不思議ではなかった。他にも様々な謎があったが、ムトに直接訊ねることにして、湊たちは急ぎ足で帰り、住処へ向かった。
 ビルの前まできても、エレベーターに乗ってすらまだ失念状態だった吉男は、ムトの姿を見るなり「ああっ!」とさけんだ。
「やっと思い出したかよ」
 十吾が言うと、吉男は自分でも信じられないといった様子で力なく首肯した。
「な、なんでだろ。ムトのことなんて絶対に忘れるわけないのに。ああ、なんでだ、なんでぼくったら。ムト、ご、ごめんね」
「気に病むことはない」
 動揺する吉男をムトはたしなめた。「そういうふうに出来ているのだから」
「どういうことだい?」嫌な予感がして、湊が訊ねる。
「私から離れすぎると、私を認識できなくなるのだ」
 空白の後、遅れて頭を締めつけた。
「適合活動が順調に進んでいる証でもあるのだが」
 と前置きし、ムトは続けた。
「星と一体化するにつれ、私の存在は空気や塵に近しい存在になっていく。例えば君達は、この部屋の現在の空気を感じ取り、いつまでも覚えていられるか? または、昨日の空気との違いが分かるか。きっと不可能だろう。私を認識できなくなり、記憶が薄れてしまうのはそのためだ」
「で、でもなんでぼくだけ」
 不穏な展開に引き離されまいとして、吉男が投げかけた。
「条件がある。私との物理的な距離と、離れた時間の蓄積が閾値(いきち)を超えると、記憶が忘却されるのだ」
 すかさず「閾値」を辞書で調べ、湊がいう。
「つまり、ムトの傍を離れた距離と離れた時間の合計が限界を超えると忘れてしまう……そうか、吉男くんの家はここから一番遠いから、吉男くんだけ忘れてしまったのか」
「でも、遠いって言っても確か二百メートルくらいしか違わないわよね。そんなに繊細な境界線があるのかしら」
 なるべく冷静さを保つようにして、ゆかりは情報整理に努めた。
「厳格な決まりがあるわけではないが、今回はたまたまその間に線があったのだろう。重要なのは、今後星との適合が進むにつれ、その限界値は下がっていくということだ。適合が完全になれば、遅かれ早かれ私の存在は記憶から消滅する。よって、ヨシオに非はない」
 ムトは気を遣ってことさら吉男に原因がないことを強調した。しかし湊たちからすれば、記憶がなくなるという話の衝撃が大きすぎてそれどころではない。
「失われた記憶はどうなるんだい」湊はまだ可能性を模索している。「穴が空いたままじゃ辻褄が合わなくなると思うんだけど」
「そうだ。その場合は、不自然ではない形で自動的に補完される。君達は、私と出会うまで放課後何をして過ごしていた?」
「僕は、実験や研究をしたり」湊に続いて吉男がいう。「未確認生物の調査をしてるな、ぼくは」
「あたしは委員の仕事や勉強」
「おれはなんかてきとうに遊んでるな」
「つまり、そのような自然行動の記憶と置き換わるのだ」
「だったら、未確認ノートのような記録はどうなるんだい」湊はまだ食い下がる。
「私の存在の痕跡は全て抹消されるが、そうだな未確認生物の調査をしているのなら、内容が書き換えられることもあるだろう」
 ずっと保留にしている人面犬のことを、湊と吉男は思い出した。それにしても、そんな都合の良い仕組みが本当にあるのだろうか。いや、あるのだろう。今までムトと関わる中で数々の不可思議な事象が起き、そのどれもが信じられないような出来事だったが、ムトが偽りを述べたことはなかった。しかし今回ばかりは事実だとしても信じたくない。ムトの深刻な語り口や態度からしても、真実なのだとわかってしまう。でも、受け入れたくなかった。
「どうにもならないのかよ」十吾が詰問するようにいった。
「ああ」
「絶対にか」
「ああ……そうだよ」
 ムトが目を伏せながら答えることで、事態はより決定的なものになってしまった。それ以上誰も何も言うことができず、四人は部屋を出た。
 公園のベンチに腰掛け、話し合うことにした。何か話さずにはいられなかった。
「本当だと思う?」吉男が、不安をまぎわらそうとして言った。
「ムトが嘘を言うことはないと思う」湊も沈んでいる。「もともと何が起こってもおかしくなかった」
 頭ではわかっているつもりでいた。だが、どうにも受け入れがたい事実だった。
「ムトも、一日で忘れるとは思ってなかったんじゃないかしら。音楽会のことを言ってる時も変わった様子はなかったし」
 ムトを庇ったところで納得には繋がらず、先の重々しい口調の真実味が増すばかりだった。誰が悪いというわけでもないのだ。
「だったらさあ、おれたちがあそこに行く意味ってなんだよ。そりゃ楽しいけどさあ、わすれちゃうんだぜ全部」
 十吾が言うまでもなく、皆が同じことを考えていた。しかし考えようにも難しすぎる問題であり、まだ衝撃も鳴り止んでいない。
「なあみなと、お前物知りなんだから、いい作戦とかないのかよ」
 言いにくそうに湊がいう。
「……わからないよ。僕にもわからない。どうしたらいいか」
 もしかすれば、湊なら解決へ導いてくれるかもしれないという淡い期待があった。しかし、それすらも潰えた。話せば話すほど絶望感に包まれ、理不尽に苛まれる。長い沈黙が訪れた。
 しばらくして、ぽつりと吉男が言った。
「でも、だったらもう行かないの?」
 瞬間的に、いやだと思った。突然告げられた事実に対し、戸惑ってはいるものの、離れたくない気持ちもやはり強く、それもまた皆が共通の思いだった。
「それは、さみしいよね」
「うん。あたしもそう思う。もし本当にあたしたちの中からムトがいなくなったとしても、ムトの中からあたしたちが消えるわけじゃないもの。それに、あれだけ楽しい時間を過ごしておいて、どうせ忘れるから離れる、なんて使い捨てみたいで卑怯よ」
「僕も、ここで別れるのは違う気がする。正しい答えがあるかはわからないけど、これは僕たちにとってどうでもいい話なんかじゃないし、わからなくても、考え続けなくちゃいけないんじゃないかな」
 いつの間にか、みんな顔を上げている。
「……だな。それによお、わすれるってムトが言ってるだけだもんな。おれたちがわすれないって強く思っておけばさあ、実はあんがい大丈夫かもしれねえもんな」
 十吾の言葉は、もちろん確証はないが、それでもすがりつけるだけの希望を持っていた。強がりだったとしてもいい。不安も消えない。しかし誰も口には出さなかった。言ってしまえば本当じゃなくなる気がしたからでもあるし、どちらにせよ、皆の心は決まっている。
 湊の言葉に、十吾が、ゆかりが、吉男が決然として頷いた。
「明日も行こう、ムトのところに」
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