第8話 口づけの余韻
文字数 2,617文字
セキレイの口づけは、いつも甘くて優しい。
それは、セキレイと出会ったときから、ずっとずっと変わっていない。
でも、それはハヤブサに向けられた口づけ――
「んっ……」
突然された口づけは、やはり少し遠慮がちで、ひたすらに優しかった。
探るように舌を絡められ、息があがる。
決して無理強いするような口づけではなく、相手の反応をこわごわと確かめて、愛撫するような。
(ああ、この人は本当にハヤブサ殿下が好きなんだ……)
コトリは職業上、ある程度肌を合わせたり口づけをしたりすれば、相手が何を思っているのかが分かる。
この口づけは、本当に好きな人に贈る口づけだ。
仕方ないな。
コトリは苦笑する思いでセキレイを受けとめた。
いや、それと同時に泣きたくもなった。
こんなに優しい口づけをしてくれるのに、セキレイにとってコトリはどこまでも身代わりなのだと突きつけられたようだった。
「では、後は頼んだぞ。セキレイ」
「はい、ハヤブサ様。こちらはご心配なく。くれぐれもお気をつけて」
身代わりのコトリが来たその日に、王太子ハヤブサは身を隠すために、陽明城をはなれて離宮へと移った。供の者は数人、お忍びでこっそりと裏手の門から徒歩で出て行った。
途中で待たせてある馬車に乗り込む予定だ。
セキレイはハヤブサを王太子宮の裏手の門で見送った。
そのあと、セキレイはコトリを王太子宮の寝室まで案内した。寝室の控えの間に近衛隊長が控えていた。
「コトリを連れてきた。夜の警備は任せましたよ」
「ええ。ご心配なく。ここは近衛兵がつめていますから」
三十ちょっとの逞しい近衛隊長は胸を張って請け合った。
そして、セキレイの後ろにいたコトリに視線を移す。
「しかし、本当に似ているな」
値踏みするように目を細められ、コトリは居心地がわるくなる。
「セキレイは……さっきの部屋で寝るのか?」
「ああ。ことが落ち着くまでは。同じ王太子宮内だからすぐに駆け付けられる。朝に迎えに来るから、今後の予定はそのときに話す」
「ああ」
「じゃあ、また明日。おやすみ、コトリ」
セキレイは控えの間で自分の執務室へと引き返していった。
知らない場所で一人になると、急に心細さが襲ってくる。
少し不安になったが、近衛隊長に隣の寝室へ案内されると、コトリはその豪華さにあっけに取られた。
大きな寝台に天蓋がついている。重厚なカーテン、重々しい調度品。貴重であろう絵画。むかし物語で読んだ挿絵の王子様の部屋が、ここにはあった。
「すっげー……」
部屋を見て回り、口をあけて呆 ける。
「俺、ここで寝るの?」
寝台の天蓋を開けて、中の布団に横たわる。
思わず独り言を言っていた。
寝転ぶと天井にも絵が描いてあるのが見えた。
「寝られるかな……」
あまりの豪華な部屋にコトリは緊張したが、疲れが出てすぐに寝息をたてていた。
次の日の朝、セキレイはコトリを起こす為に彼の寝ている寝室へ入った。
天蓋を開けてみると、彼は天翔楼にいたときと同様、行儀よく寝ている。
規則正しい寝息が聞こえ、良く寝ているのがわかった。
昨日はよっぽど疲れたのだろう。
しかし――考えてはいけないと思いつつ、コトリがハヤブサにかぶる。
ハヤブサもこんな風に寝ていた。
その考えをぬぐい捨ててセキレイはコトリに声を掛けた。
「コトリ、朝だ。起きろ」
「う…ううん……」
寝返りをうつコトリの肩を軽く叩く。
「起きろ」
うっすらと目を開けたコトリは、目の前のセキレイを見て、大きく身体をのばした。
「朝か」
「そうだ」
「良く寝た」
「そうのようだな」
セキレイは苦笑した。
やはり傾城、度胸が違う、と思った。
「着替えたら朝食を摂りながら、これからの予定を話す」
食事ののった盆が窓辺の卓においてある。
セキレイが運んできただろう朝食にコトリは目を白黒させた。
「ここで食べるのか?」
「ああそうだ。その間に今後の予定を話すから良く聞いていろ」
「ご飯くらい静かに食べたいなあ」
あくび交じりに薄黄色が基調の着物に着替えると、部屋に汲んである水で顔をあらい、髪をとかし、髭をあたった。薄黄色は王族の色だ。そして、窓辺の椅子に座り卓においてある食事に手をつける。
朝食はパンとジャム、野菜スープに果物、ヨーグルト、ミカンジュースだった。
すべて器に盛ってあり、既製品の面影はない。
「俺、朝は粥 でいいんだけど……こんなに食べられるかな」
「食べられなかったら残せばいい」
貧しい人間は絶対に言わない言葉を聞いて、ここは世界が違う、とコトリは思う。
コトリが朝食に手をつけている間、セキレイはいつもハヤブサにするように報告を始めた。
「この先、この王太子宮ではハヤブサ様の結婚相手を選ぶという名目で宴が開かれる予定になっている」
「うん」
「それにはコトリに出てもらう」
「……嫌だけど分かった」
顔をしかめるコトリにセキレイは聞いた。
「ダンスの経験は?」
「ない。人に見せる舞踊 ならできるけど」
「ならばあとで俺と練習しよう。コトリには数人の女性と踊ってもらわないといけないからな」
コトリにやってもらうのは、ひとまずこの宴だ。
結婚相手を選ぶという名目のこの宴は、洋装で行う舞踏会だった。
この国は外国からの文化を惜しみなく受け、伝統のある着物以外にも洋装のタキシードやドレスなども着ていた。民は洋装と和装、どちらも好きなものを着ている。が、和装はとくに身分が高いものが着ることが多かった。
本当はもう実質的にはハヤブサの結婚相手は決まっている。
ならどうしてこんな舞踏会を開くのか。それは、他の大臣方を納得させるためや、側室の候補を見るためだった。
ハヤブサは仕事をひとまず棚上げにし、身の安全を図るために地方の離宮へ昨日の夜、旅立った。
ハヤブサの不在の間に行われるこの宴が、目下のところの大きな行事だ。
「宴では失態をするなよ。ハヤブサ様の顔に泥を塗るようなまねは絶対にするな」
いつに無いセキレイの厳しい声に、コトリはまた泣きたくなるような感情を覚えた。
それは、セキレイと出会ったときから、ずっとずっと変わっていない。
でも、それはハヤブサに向けられた口づけ――
「んっ……」
突然された口づけは、やはり少し遠慮がちで、ひたすらに優しかった。
探るように舌を絡められ、息があがる。
決して無理強いするような口づけではなく、相手の反応をこわごわと確かめて、愛撫するような。
(ああ、この人は本当にハヤブサ殿下が好きなんだ……)
コトリは職業上、ある程度肌を合わせたり口づけをしたりすれば、相手が何を思っているのかが分かる。
この口づけは、本当に好きな人に贈る口づけだ。
仕方ないな。
コトリは苦笑する思いでセキレイを受けとめた。
いや、それと同時に泣きたくもなった。
こんなに優しい口づけをしてくれるのに、セキレイにとってコトリはどこまでも身代わりなのだと突きつけられたようだった。
「では、後は頼んだぞ。セキレイ」
「はい、ハヤブサ様。こちらはご心配なく。くれぐれもお気をつけて」
身代わりのコトリが来たその日に、王太子ハヤブサは身を隠すために、陽明城をはなれて離宮へと移った。供の者は数人、お忍びでこっそりと裏手の門から徒歩で出て行った。
途中で待たせてある馬車に乗り込む予定だ。
セキレイはハヤブサを王太子宮の裏手の門で見送った。
そのあと、セキレイはコトリを王太子宮の寝室まで案内した。寝室の控えの間に近衛隊長が控えていた。
「コトリを連れてきた。夜の警備は任せましたよ」
「ええ。ご心配なく。ここは近衛兵がつめていますから」
三十ちょっとの逞しい近衛隊長は胸を張って請け合った。
そして、セキレイの後ろにいたコトリに視線を移す。
「しかし、本当に似ているな」
値踏みするように目を細められ、コトリは居心地がわるくなる。
「セキレイは……さっきの部屋で寝るのか?」
「ああ。ことが落ち着くまでは。同じ王太子宮内だからすぐに駆け付けられる。朝に迎えに来るから、今後の予定はそのときに話す」
「ああ」
「じゃあ、また明日。おやすみ、コトリ」
セキレイは控えの間で自分の執務室へと引き返していった。
知らない場所で一人になると、急に心細さが襲ってくる。
少し不安になったが、近衛隊長に隣の寝室へ案内されると、コトリはその豪華さにあっけに取られた。
大きな寝台に天蓋がついている。重厚なカーテン、重々しい調度品。貴重であろう絵画。むかし物語で読んだ挿絵の王子様の部屋が、ここにはあった。
「すっげー……」
部屋を見て回り、口をあけて
「俺、ここで寝るの?」
寝台の天蓋を開けて、中の布団に横たわる。
思わず独り言を言っていた。
寝転ぶと天井にも絵が描いてあるのが見えた。
「寝られるかな……」
あまりの豪華な部屋にコトリは緊張したが、疲れが出てすぐに寝息をたてていた。
次の日の朝、セキレイはコトリを起こす為に彼の寝ている寝室へ入った。
天蓋を開けてみると、彼は天翔楼にいたときと同様、行儀よく寝ている。
規則正しい寝息が聞こえ、良く寝ているのがわかった。
昨日はよっぽど疲れたのだろう。
しかし――考えてはいけないと思いつつ、コトリがハヤブサにかぶる。
ハヤブサもこんな風に寝ていた。
その考えをぬぐい捨ててセキレイはコトリに声を掛けた。
「コトリ、朝だ。起きろ」
「う…ううん……」
寝返りをうつコトリの肩を軽く叩く。
「起きろ」
うっすらと目を開けたコトリは、目の前のセキレイを見て、大きく身体をのばした。
「朝か」
「そうだ」
「良く寝た」
「そうのようだな」
セキレイは苦笑した。
やはり傾城、度胸が違う、と思った。
「着替えたら朝食を摂りながら、これからの予定を話す」
食事ののった盆が窓辺の卓においてある。
セキレイが運んできただろう朝食にコトリは目を白黒させた。
「ここで食べるのか?」
「ああそうだ。その間に今後の予定を話すから良く聞いていろ」
「ご飯くらい静かに食べたいなあ」
あくび交じりに薄黄色が基調の着物に着替えると、部屋に汲んである水で顔をあらい、髪をとかし、髭をあたった。薄黄色は王族の色だ。そして、窓辺の椅子に座り卓においてある食事に手をつける。
朝食はパンとジャム、野菜スープに果物、ヨーグルト、ミカンジュースだった。
すべて器に盛ってあり、既製品の面影はない。
「俺、朝は
「食べられなかったら残せばいい」
貧しい人間は絶対に言わない言葉を聞いて、ここは世界が違う、とコトリは思う。
コトリが朝食に手をつけている間、セキレイはいつもハヤブサにするように報告を始めた。
「この先、この王太子宮ではハヤブサ様の結婚相手を選ぶという名目で宴が開かれる予定になっている」
「うん」
「それにはコトリに出てもらう」
「……嫌だけど分かった」
顔をしかめるコトリにセキレイは聞いた。
「ダンスの経験は?」
「ない。人に見せる
「ならばあとで俺と練習しよう。コトリには数人の女性と踊ってもらわないといけないからな」
コトリにやってもらうのは、ひとまずこの宴だ。
結婚相手を選ぶという名目のこの宴は、洋装で行う舞踏会だった。
この国は外国からの文化を惜しみなく受け、伝統のある着物以外にも洋装のタキシードやドレスなども着ていた。民は洋装と和装、どちらも好きなものを着ている。が、和装はとくに身分が高いものが着ることが多かった。
本当はもう実質的にはハヤブサの結婚相手は決まっている。
ならどうしてこんな舞踏会を開くのか。それは、他の大臣方を納得させるためや、側室の候補を見るためだった。
ハヤブサは仕事をひとまず棚上げにし、身の安全を図るために地方の離宮へ昨日の夜、旅立った。
ハヤブサの不在の間に行われるこの宴が、目下のところの大きな行事だ。
「宴では失態をするなよ。ハヤブサ様の顔に泥を塗るようなまねは絶対にするな」
いつに無いセキレイの厳しい声に、コトリはまた泣きたくなるような感情を覚えた。