第10話 荘子を読む(2)一本足の「夔」

文字数 1,747文字

 一本足の「()」という動物は、ある時、足の多いヤスデをうらやみ、ヤスデに言った。
「わしは一本足で跳ねながら行くのだが、それでさえ、この一本足を思うままに動かすことができない。ところが、お前さんは万本の足を使っているが、いったいどうして動かしていなさるのかね?」

 すると、ヤスデは答えた。
「いや、べつに理由があるのではない。自然にそうなるのであって、意識的にそうしようとしているわけではない。今、わしは自分のうちにある自然のはずみを動かしているだけであり、なぜ万本の足が動くのか、わしにも分からないよ」

 そのヤスデは、蛇に向かって言った。
「わしは沢山の足で歩いているのに、しかも足のないお前さんの速さに及ばないのは、どうしたわけだろう?」
 蛇は答えた。
「わしは自然のはずみのままに動いているのだから、このほかにどうしようもないのだよ。わしは足に用がないのだ」

 その蛇はまた、風に向かって言った。
「わしは自分の背中やあばらを動かして行くのだが、お前さんはひゅうひゅうと北の海から起こって、またひゅうひゅうと南の海に入りなさる。まるで影も形もないように見えるのは、いったいどうしたわけかね?」

 すると、風は答えた。
「いかにも。だが、指一本で向かって来るものがあると、わしはこれを避けて通る。指一本に、わしはつまり負けてしまうわけだ。足一本でわしを蹴ってくるものにも、わしは勝てない。とはいっても、木をへし折ったり、家を吹き飛ばしたりすることはできる。つまり、つまらぬ小さなものに勝たないということが、やがて大きな勝利を得ることになるわけだよ」

 ── 荘子は、勝敗になどに拘泥しない。この物語は、風を「聖人」にたとえたもので、荘子によれば、聖人の定義は「精を極めた者」「精神を至高にまで行かせた者」をいう。
 それも、「極めようと努力する」「行かせようと頑張る」といった使役心のはたらきはなく、自然のままにそうなった・そうなっている、そのままの姿を指す。
 自然とは、おのずからそうなっている、そのままの姿だ。

「絶対というものはある」」と言葉にすると「絶対でないもの」が生まれる。その言葉が、相対を生む。
 けれども、相対を必要としない、単一で、単体で、それだけで成り立っているもの、それが「真」のものである。が、それを言葉にすることは不可能で、「分かる」ものではない。

「分かる」というのは、ものを「分けて」見ることによって、「分かる」という。そこには、すでに相対差別が含まれてしまう。差別など、もともと存在しないのに。

 荘子は、人間の知恵や知識を嘲っている。それも、人間にとって知というものが、完全に脱ぎ去り難いものであることを知った上での、嘲りだろう。
 知をはたらかせることなく、唯一無二の、だから絶対であり全体を包容する、「真実」と換言できるものに向かって、それそのものと同化してしまった人間── 荘子は、そんな人間に思えて仕方ない。

 しかし、荘子はそれでほんとに生きて行けたのだろうか。ヤスデや蛇たちは、自分の自然だけに従って、そのまま生きることができそうだが、人間の場合、自分の自然だけに従って、生きることができるだろうか。いや、逆に、自分以外の自然と同化したら、死んでしまうということを、荘子は言いたかったのか…
 
 中国には、自己矛盾を矛盾としない、「タフ」としか言いようのないような逞しさが、古来から息づいているから、荘子もどこかで「自然」と「他然」を使い分けて生きていたかもしれない。
 仕事に就いている時間は孔子の儒教信者のように堂々と振る舞い、家に帰れば老荘思想の道教信者になった、そんな公務員たちが昔から多かった彼の国。そんな、自分に都合のいいように「住み分け」できる(しかも自然のように!)、そういう生き方のようなもの…

 考えてみれば、そんな民族性以前に、要するに「切り替える」能力に長けているということで、そこに孔子や老荘のような確固たる思想があったというだけの話で、たいしたことでもないかもしれない。ここ日本にだって、家に帰れば、職場と別人のようになる人も多いだろう。
 ただ単にシンプルに、「ありのままに生きよ。小さなことにこだわるな」を、この物語は言わんとしているようにも思える。
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