第16話 自分に引きつけて

文字数 1,135文字

 荘子には、恵施という親友がいた。だが、恵施は宰相の地位に就き、残された荘子はすっかり無口になった。
 恵施は、恵まれた才能をもちながら、「外部の物」を求め、そのまま帰って来なかった。荘子は、「自己喪失者」に終わってしまった恵施を、惜しみ、悲しんだ。

 自己喪失。
 自分の帰っていく場所を失ったもの、というイメージが浮かぶ。
 
 工場で働いていた時、私にも、これ以上仲良くなれないような友達がいた。彼は、遅刻も欠勤もせず、淡々と働いていたが、周囲の者に対し、あまり作り笑いをせず、ハキハキした態度もとらず、穏和に、じっと真っ直ぐに相手を見る、という態度をとる、まだ20歳の若者だった。
 私は30を過ぎ、それなりに社交儀礼的なものもわきまえ、まわりの者と円滑にやるおっさんだった。

 一見、全く違うタイプであった彼と私は、しかし朝昼晩と、いつもふたりで工場の食堂でご飯を食べ、休憩中もいつも一緒にいて、仲良くなった。
 彼はまるでマイペースの様子で、サイドの髪が肩まで伸び、鬱陶しそうだったが、「憂鬱を楽しんでいるんです」と言い、目の細いギリシャ人のような端正な顔立ちを少し緩め、いつも笑っていた。

 だが、まわりの、つまり職場の先輩や上司たちは、彼を快く思っていなかった。同じ20歳の若者が、職場にもうひとりいたのだが、その人の方が評判がよかった。物腰も柔らかく、ハキハキと笑顔でまわりと接していたからだと思う。
 だが、いつか帰りのバスで一緒になり、停留所で降りた時、この評判のよい若者が、私の友達に、何かつっけんどんに話し掛けているのを見た。一方的に、何か文句のようなことを言っている様子だった。

 あまりにもマイペースに生きているような私の友達に、その人は嫉妬をしているような、また、「お前も大人なんだからしっかりやれよ」というような心の事情を私は想像した。私の友達は、何も言わず、やはりただ真っ直ぐ相手を見つめていた。そのふたりは、同じ寮だったはずだが、距離をおいて歩きはじめた…

「自己喪失」という言葉から、パラドックスのように、あの友達のことを思い出す。彼は、しっかり自分の足を地に着けて歩いていた。けっして「自分の帰る場所」を失わない、それどころか、その場所ごと、移動して生きているような若者だった。
 彼のような人間を、職場が快く思わないということは、私にはとても悲しい、つらいものがあった。期間従業員だったので、彼はまもなく満了退社し、私も数ヵ月月後に退社した。

 会社が社会をつくるに大きく貢献しているとしたら、と想像した。評判のよかった若者を優先し、雇用するのかと想像した。そこから「社会人」ができあがっていくのかと想像したら、この社会が、何だかつまらないものに思えた。
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