第17話 所感をもって

文字数 1,339文字

「『荘子』は気分を楽しむものであって、論理化するものではない」
 そんな批評が、魏の時代末期の「竹林の七賢」の間にあったという。
 荘子を言葉にすることは難しい。荘子自体が、言葉によって有限化されることを拒んでいる。ここにこの連載(!)の難しさもある。私の脳と言語能力の貧しさもある。

 そもそも、気分とは個人的なものである。そして荘子を楽しいとするのは、私の気分だろう。気分は、喜怒哀楽、みじかい形容詞で終わってしまう。詳細は、その気分をもつ「私」を取り巻く外的環境、内的道程を説明する作業が必要になってくる。
 これをしないのは「手抜き」になるだろうか。横着がなせるわざだろうか。
 そも、気分に訴えてくる書物とは、一体何を云っているのだろう。その土台にある「共感」、これもあさはかな気分的なものだろうか。

 「書く」という作業は、一体何なのか? 独り言でなく、これは誰か、誰もいないとしても、誰かに向けて発するものだ。そばに誰もいなくても、「助けてくれ!」と叫ぶことができる、それが文学だと言った戦後作家もいる。
 何も、わたしは文学などやっているつもりはない。そもそも文学というものがよく分からない。しかし言葉というものによってできるものとは、つまるところ、何なのだろう?

 ─── 荘子は、中国で初めて「無」を発見した老子の、その無を「無限」にひろめた哲学者だった。無限の荘子は、読む私に、鏡のように「私」を映した。実体はガラスなのだ。荘子は私を映してくれるが、その鏡は荘子そのもので、荘子を私はつかむことができない。
 その私の、左斜め上空に、荘子はぽっかり浮かんで、こっちをじっと見つめてくる。まるで私を試しているようにもみえるが、一体何を考えているのか。
 ただ、じっと私を見つめている。その視線の先は、ほんとうに私なのだろうか。
 … ギブアップ。「荘子」は、手に負えなかった。あくまでひとりで楽しむものなのかもしれない。本は、みんなそうなのかもしれないが…。

    ────────────

「老子」は難しい。「孔子」はまとも過ぎる。荘子が、いちばん友達になれた。
 性善説の孟子、性悪説の荀子、博愛主義の墨子…古代中国の哲学は、窮極的なものがあった。
 ギリシャ哲学と比べて、読み易い。合理づくめの論理より、情緒に訴えてくるものが多い。
 哲学が、人の幸せを考える学問、人はどう生きるべきかを考える学問だとしたら、荘子は私に考えることよりも、私を「考えずに幸せになること」を明示してくれた。これからも、荘子は家の風呂に入りながら、または夜寝る前に布団の中で読み続けるだろう。どこか旅行に行く時も、携えて行きたい本だ。

 直截的には、よく、死にたいなァなどと想ってきた私に、「いいじゃないか、生きてたって。たいしたことじゃない」と言ってくれたのが荘子だった。
 本は、その著者と読者の一対一の人間関係のようで、そこにひとつの世界ができあがるようだ。現実のような、非現実のような、それでも、確かに手ごたえのある…
 荘子とあそぼう。この世もあの世も、よくわからないから。わたしが荘子について、荘子の魅力について、言語化しようとつとめてきたことのぜんぶは、これに尽きるようである。
 荘子とあそぼう。
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