第12話 荘子を読む(4)付録から

文字数 1,317文字

 文字通り名著と思われる「世界の名著・老子荘子」の付録から、対談する湯川秀樹の言を借りよう。
「どこが好きかといったら、西洋流と違う、自由思想ですね。老荘思想に頭を下げる必要がない。自由に反対できる。孔子の悪口は、あまり言ったらいかぬ。キリストの悪口もいかぬ。お釈迦さんの悪口もいかぬ。
 けれども、老子や荘子については、何を言ってもかまわない。そこが何ともいえぬ魅力ですね。それが、魅力ある思想というものだと思う。
 どうしてもその説に従わねばならぬということになったら、私は反発する。… 老荘の信者には、気を使う必要がないのが、何ともいえぬいいところですね。そもそも、信者というものがあるのかどうか……」

「中国人も勤勉ですけれども、日本人はもっと勤勉ですね。その点、老荘思想は、怠惰の自由の哲学といっていい。
 儒教も仏教も、怠惰の哲学ではない。老荘のほうは、怠惰哲学の色彩が非常にはっきりしているから、日本では、これはいかん、世道人心に悪いという考え方が、相当強いのじゃないか。
 しかし、私が老荘哲学に惹かれるのは、窮屈でないからです。人間というものは、安らぎを求めているのでね。
 仏教的な安らぎもあるでしょう。儒教的な行き方もあるでしょう。いろいろあるけれども、なんといったって、人間の安らぎというのは、やはり怠惰の自由と関係がありますよ」

 実に楽しそうに、湯川秀樹さんは鼎談なさっている。
 訳者の、森三樹三郎さんの解説によれば、司馬遷の「史記」の「荘子伝」が最も古いという。やはり抜粋させて頂こう、これは荘子の紹介文のようなものだ。
「荘子は蒙の人である。名を周という。…文章はなかなか巧みで、さまざまな事実をあげ、人情の機微をつき、これによって儒家や墨家に攻撃を加えた。そのため、当世の学者たちも、その鉾先を避けることができなかったほどである。
 ただ、かれの議論は、ひとりよがりの放言をほしいままにするものであったため、王候貴族たちは、かれをすぐれた人物として認めることがなかった」

 森さんによれば、「荘子は、ひたすら人間の永遠の運命を追求することに専念した人」であり、「荘子は何にもまして宗教的な人間であった。このことは、かれを孤独な運命に置くこととなった。なぜなら、かれを取りまく中国の知識人は、伝統的に政治的人間であったからである」とある。また、
「荘子が生きた戦国の世、列国の勢力争いが激しく、そのあいだをぬって諸子百家と呼ばれる政治経済専門のコンサルタントが活躍していた。だが荘子は、このような潮流から取り残された孤独な人間であった。」

「政治的人間」とは、「現実の諸問題に、具体的な対処をしようとする人間」といっていいと思う。「宗教的人間」とは、「その現実の諸問題をつくる根源的で永遠的なものを見据える眼をもった人間」だと私は思う。
 荘子は、はたからは不遇な生涯に見えたとしても、本人にしてみれば自分の運命に従っただけで、それこそ「自分らしく」生きたのであって、それを不幸とも幸福とも思わなかっただろう。
 そんな生き方こそ、私には真の人生の勝者であるように思える。
 そして荘子は言うだろう、「勝ち負けなんか、ないんだよ」と。
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